つまり、第二のイエス・キリスト、第二の聖女テレジア、第二の聖フランチェスコが出現する可能性が十分考えられる訳です。

聖書の木の実を食べた暁には、その人は、単に、聖書の中の言葉をすべて覚えているばかりでなく、聖書の中に出て来る人物、まさにあのイエス・キリストその人に化身して行くことになるのです。

その言葉を覚え、暗記し、自らのものにして行くにつれて、まさに言葉を語った当の人物、すなわちイエス・キリストに化身し、その人自体に成って行くのです。

言葉は肉体であり魂であるとすれば、イエス・キリストの言葉を言うということは、やがて自らがイエス・キリストの肉体となり、イエス・キリストの魂となることにほかならないのです。

すなわち、ここに第三のあるいは第四のイエス・キリストが誕生することになるのです。そして第三のあるいは第四のイエス・キリストは、第一のイエス・キリストとはまったく同じではないにしても、本質においては、けっして異ならない生涯を送ることになるのです。

つまりですね、苦難と迫害と追放の長い放浪の生涯を送ることになるのです。後に、第一のイエス・キリストのごとく十字架上の犠牲死とそれからの復活を遂げることになるのかどうかは分かりません。

聖書の言葉を覚えるということはその言葉を言った人になることです。聖書を覚えるということは聖書を生きることです。

そして聖書を生きるということはイエスを生きることです。イエスをもう一度生き直すということです。新しいイエスを生きることです。

イエスの苦難を背負い十字架を背負うということです。さあ、これがその聖書の木です。いかがかな、これを買う勇気がありますか」

四 パスカルの庭

「あら、ここにいらっしゃったんですか」

春の風が吹いて来たようである。かすかに花の匂いを漂わせながら、薄い、半ば透き通った白いベールがひらひらと揺らめきつつ、目の前に現れた。セイレイ嬢であった。

「何か、ここは抜けられませんね」

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