五 蝶に聞け

いや、すでに始まっているのだ。始まっていることに気が付かなかっただけなのだ。生きるというのは探すことだ。そのことが今初めて分かりかけて来たということだ。

しかしどうしてこのような考えが、今ぼくの胸に蘇って来たのだろう。

もしかしたら広々とした、匂い立つ花園の中に入り、体も心も開かれ、今までの緊張と拘束と不安と喧噪のために閉じこめられていた状態から初めて伸び伸びと解き放たれて、ぼくというものが思い出されて来たのかもしれない。

ぼくがぼく自身にもどり始めたということかもしれない。しかしたとえそうだったとしても、もどったはずの自分というものが記憶喪失の一個の疑問符でしかない存在だとすれば、真にはもどったとは言えないのかもしれない。

ただこうして目が見え、耳が聞こえ、話もでき、声を発することもでき、何よりも言葉が使え、心の中から滾々(こんこん)とそれが湧き出るがごとくであることは嬉しい限りだ。

言葉はもしかしたら過去への、世界への、目であり耳であり窓であるかもしれないからだ。真の自分への唯一の失われた道筋かもしれないからだ。

ふいに釈迦のことが思い出された。どうしてだか分からない。

釈迦は何一つ不自由もない宮殿に生まれ育ち妻も子もありながら、ある日、街に出、貧民や病人や死人たちの姿を見て、突然、妻も捨て子も捨て父や母も捨て、宮殿にもはやもどることなく、疑惑と不安と放浪の旅に出、どこまでもどこまでも歩いて、ついに山に入ったということだ。

そのことがふいに今思い出されて来た。

釈迦は自分と同じ疑問に捕らわれたのか、「自分は一体どこから来たのか。自分はどこへ行こうとしているのか。そして自分は一体何者なのか」という一大疑団を発して、放浪の旅に出たのだったか。