磯吉商店

10分も経たない間にハルは配達を終えて店に戻ってきた。ハルは中学を卒業して15歳で磯吉商店にやってきた。それからはや10年が経ち仕事もしっかり身に着いた頃で、宴会用の刺身はハルの担当になっていた。今からハルの大事な仕事が待っているのだ。

大急ぎで黒の長靴に履き替えて手を洗い、腰から足のくるぶしまである長い耐水のビニールエプロンを付けて調理台の前に立った。包丁の切れ具合を確認すると冷蔵庫から用意してあった刺身の切り身を出す。包丁の刃元を軽く刺身にあて、猫が手を招くように刃元から刃先に向けて包丁を下ろして手前に引き切るのだ。

同じ刺身でも包丁の入れ方ひとつで角が立って美しく、舌触りや味も変わることを知っている。刺身の方もハルに切られるのを嬉しそうに待っているようだ。

ハルの中学校での成績はすこぶるよかった。それでも家にはたくさんの腹違いの兄弟と金使いの荒い継母がいて、ハルが高校に上がるのは不可能だった。磯吉商店が常磐町に店を開いてすぐくらいに、中学校の先生の紹介でハルは働き始めた。

できたばかりの磯吉商店は銀行に借金をして30坪ほどの小さな鮮魚店から始まった。ハルの若いチカラとやる気を借りてお店はどんどん繁盛していき、この10年の間に北隣の40坪の時計屋の土地を買い足して新たに宴会場を増設したのだ。

そして以前鮮魚店のみだった頃のスエヨシ家族の住まいが宴会用の厨房に替わり、今は宴会場1階の玄関ロビーの奥がスエヨシ家族の住まいになった。

ハルが戻ったことに気付いたキヨは厨房から足早にやってきて「ハルさん、ありがとう。いつも助けてくれるのはあんただけや。頼りにしているよ」と丁寧に礼を言った。

キヨが頼りにしているのはハルであり、夫スエヨシのことはほぼ諦めているのだ。いくら働き者のキヨでも、キヨ一人ではお店をここまで大きくすることは不可能だった。キヨは48歳でもうそう若くもなかったから若いハルは頼もしかった。今となってはハルなしでは仕事が回っていかなかったから、キヨはハルに心から感謝していた。