ミャーと鳴き声が聞こえて飼い猫のミーが裏の戸口に現れた。
「ミー、ちょっと待ってて」と、着替えを済ませたトモはミーに声をかけると刺身を切っているハルのところまで行き、部屋から持ってきた漫画を事務机の上に置いた。
「これ読んでいいよ」とハルに声をかけると、照れくさそうな顔をしてそそくさと猫のミーに餌をやりにいった。片手に煮干しを掴んでミーの前にしゃがみこみ
「よしよし、たくさん食べろ」と言いながらミーの頭を撫でてやる。それが終わると、トモは手を洗いエプロンを付けてキヨの手伝いをしに厨房へ向かった。ハルはトモの背中に向かって礼を言うと、トモはちょっとだけ振り返ってニコッと笑い
「うん」と返した。
トモは厨房に入ると盛り付けられた料理をリフトに運び、宴会のある2階へ順番に上げ始めた。「ビール10本上げてちょうだい」と2階から仲居の元気な声がする。そろそろ客が揃って宴会が始まる時間だ。
それから1時間ほどして、高校の制服を着た2番目の娘カコと中学の制服を着た末っ子のシンが、鮮魚店と宴会場の間にある細い通路から家に入ってきた。カコは高校1年生、シン中学2年生だ。
「お母さん、ただいま」とだけ言うと、カコはさっさと奥の住まいへ入ってしまった。
細い通路を従業員の一人が表の通りへ出ていくところで、すれ違いざまにシンとぶつかった。シンは従業員が荷物を持って前から歩いてきたのに避けようともせずにど真ん中を歩いていき、肩どうしがぶつかったのに謝りもせず「フンッ」と言ったきり知らん顔である。
「疲れたぁ、お母ちゃん。お腹空いたからはよ飯作ってな。こっちの通路は細いけど俺は生臭いにおいの魚屋を通るのは嫌なんや」と、ブツブツ言ってシンは不機嫌そうにキヨの顔を見た。
「お母ちゃん、明日は卓球の試合や。弁当頼むな」とシンは付け足した。キヨはシンの顔を見た途端ニコニコ嬉しそうに微笑んで「はいはい、ベントウ、弁当」とキヨは応えた。
シンはキヨの返事を聞いたか聞かないうちに、そそくさと奥の住まいに入っていった。テンヤワンヤで大忙しの厨房に、その後カコとシンの2人が現れることはなかった。
スエヨシの妻キヨは、横浜で飲食店を営む父母の元に生まれた。キヨが10歳の頃に父親が亡くなり一人残された母親は忙しく、キヨを子どものいない遠い親戚の叔母にもらってもらうことにしたのだ。
どうしても嫌がるキヨに、後から弟が必ず行くから先に行って待っていろとだましてキヨを出した。それを信じて渋々出てきたキヨだから、来る日も来る日も弟が来てくれることを信じて待ちわびて、弟が現れなかった夜を泣いて暮らした。結局弟は現れず、最後はとうとう諦めるしかなかったのだ。その寂しさをキヨはずっと忘れることができなかった。
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