停車。野田軍医の回診、大川が注射器をもって後をついて行く。保は車内で薬凾をかき廻し治療を始める。各車輛の桶が炊事車へ集る。
リーダは薬を取りに警戒車へ行く。マリアは炊事釜からスプーンでスープをすくいあげる。爺さんは神経痛のため、気鬱々として娯(たのし)まず穴で食器をスプーンで叩きならして食事を待っている。
爺さんスプーンを置いて神妙になった。大尉が来たのである。「マーリア」、今日はマリアだ。炊事車から駆けつけた彼女へ早口で怒鳴って行った。炊事に何か欠点があったのだろう。彼女は自身の毛布へ上ってわっと泣き出した。食事は塩付け羊肉の浮いた白米スープに甘い稗がゆと白乾パン。
穴から「同志マリア、この食事は非常に宜しい」と独り言の様な、呟きがもれた。爺さんは同意を求めるかの様に保に笑いかけ、のこのこ穴から這い出して机の上においてある治療簿を手にとった。列車が動き出してから書入ようと投薬欄を保は空白に殘していたのである。
「保、あなたは旅行がすめば此の仕事はやらなくなる。私は一生しなければならない。斯んな不真面目では責任は果せない。ニーハラショー」
オムスクの街を眺めて賑かに話合っているリーダ・ニーナが羨しい。野田、大川、は戻って来ない。他の車輛へ乗っているのだろう。
悄氣(しょげ)た保に憧れた瞼のマリアが「善い子供―彼女には保と同齢の息子があり名前を覚えぬままに子供と呼んでいた― 私はあなたがたがよく働くのを知っていますよ」。爺さんむっとして穴へ入ってしまった。
「子供、皆が居ない時食べなさい。肥って還るんでしょ」と食器一杯のバターを手にのせてくれた。
白樺、落葉松、蝦夷松、白楊(はくよう)、牛馬の放牧、樹河、
ウラジオストックへの里程標の数字が次第に減じて行く。
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