さて、結論である。

日本列島におけるうた歌謡の始源は、弥生時代前期、プレ歌垣行事における、男女間の問答・掛け合いの集団詠にある。

倭(和)語はことばの欠片として1音から8音・10音のように様々に存在したに違いないが、はなしことばの3音・4音・5音・6音・7音・8音は縮めたり伸ばしたりすれば、5音・7音にできる。

歌垣の進行に合致するよう、プレ片歌様のもの・プレ旋頭歌様のものが、整理され、あるいは定形化され、また一方で洗練され、片歌・旋頭歌に収斂してゆく。

この定型歌への契機は、歌垣の公開性・衆目性にあり、皆に見られていれば張り切れる、才能が発揮できるという人間の泥臭さにあるのかもしれない。また、はなしことばからうた歌謡そのものへの飛躍は、生活の単なる延長上には生まれない、「飛躍のバネ」を必要とする。

その差が小さかろうと「別次元」なのである。「ふとした非日常」「軽い断絶」の上にひょっこり現れるのである。これは、歌を作らない学者・研究者には解らない、万葉集研究では見えない「作歌衝動」および「飛躍のバネ=相聞マジック」とでも名付けておこう。

ここから古墳時代を経て、長歌、反歌、短歌の形式を持つことは、衆知のことであるが、私の役目はここまでで十分である。

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