歌垣という和製漢語の「垣」は、囲いの垣ないし人垣の垣の意であろうが、古くは、何か目印が施された、木製の標識を立て土や石の垣で囲む場とか、身近な竹・藤・柴等で飾られた囲みの場とか、それと分かり集まりやすいエリアが作られたと想像される。

集まり方は、各地各様のきまりごと(女が先に会場入りする等)もあったろうと思われる。古代の集団お見合いと考えれば、想像しやすい。

この様式は、狭い共同体内の、神を頼り神に祈るという封鎖的神事の域を超えており、若者の開明的な儀礼という性格を、既に持っていたといえる(この開明性は、後に遊びの要素も持ち、既婚者を含む大きな行事にまで発展する)。

性の領域でのこの開明性は、村落単位の拘束性に一部で風穴を開けたに等しく、神事での団結と拘束に影響を与えずにはおかない。うた歌謡の始源論における「祝詞起源説」、「言霊信仰起源説」、さらには、折口信夫の「神意下達論」等が、正鵠を射ていないのは明らかである。

歌垣は、名も集落名も知らない男女が出会い、不慣れなことばを掛け合うことに始まる以上、掛け合うことばは始めから整理されたものではなく、その場その場の即興的なもの・即興の連続からスタートせざるを得ない。

プロセスも始めから定形などあり得ない。自己紹介に始まり、掛け合い・問答・探り合い・からかい・はぐらかし・はねつけ等々を経て合意や拒否に至る。

これらのプロセスでの男女群の経験・練習を経て、はなしことばの掛け合いは定形的なものが工夫され、即興と定形を交えて歌垣の掛け合いは長時間続くことが可能になる。また、掛け合い形式のはなしことばがより定形化し、ことばとしてもより洗練されてゆく。

やがて相聞歌に至るうた歌謡においては、歌垣は相聞歌を育む「自然のゆりかご」であった。そして、歌垣における「相聞歌への訓練・洗練」のなかで、倭(和)語のうた歌謡は産声をあげることになる。