新潟での日々
名立町から和島村へ
翌年(昭和二十九年)の春、父と母は名立から北に百キロほど離れた、三島郡和島村(現在は長岡市)の小学校に転勤しました。
村には二つ小学校があり、山あいの小学校に父が、里に近い小学校に母が勤務することになり、私たちは母が勤める小学校の教員住宅に入居しました。住宅が狭かったからか、祖父と祖母は東京・世田谷の叔父(父の弟)の家に身を寄せて行きました。
和島村に引っ越してまもなく、母に手を引かれ近所の方々に挨拶をしている光景を今も覚えています。それが私の幼少時代の記憶の始まりです。
名立町から引っ越した年は、上の姉が小学校に入学する年でした。
上の姉と私は三つ違いで、もう一人、私と一つ違いの次姉(愛称てーちゃん)がいました。次姉は生まれてまもなく脳性小児麻痺に罹り、体が不自由でした。母が勤めていたので名立から母の教え子を連れてきて、お手伝いさんとして次姉の面倒を見てもらいました。
上の姉が学校から帰ってくるまでの間、自由に動けない次姉と私は住宅の横にござを敷き、遠くに見える弥彦山を二人で眺めていたものです。
あるとき、カエルが私たちの横をピョンピョン跳ねて行ったと思ったら、そのあとを蛇が追いかけてきて足を止め(足はないけど)、頭をもたげて私たちをじっと見たのです。逃げることもできずに身を固くしていると、まもなく蛇はカエルのあとを追って去って行きました。ほんの数秒の出来事でしたが、とても恐ろしい経験でした。
それからしばらくして次姉は自分の力で立てるようになり、家族みんなで喜びました。
グラグラしながらも必死で立つ次姉の姿を、父が撮影し写真に残しています。ずっと最後まで次姉のことを心配していた優しい父。次姉が一人で立ったときも父が一番嬉しかったのではないかと思います。
和島村に来て三年が経ち、私も小学生になる日がやってきました。次姉も一年遅れて私と一緒に入学し、まだ歩けなかった次姉はお手伝いさんに背負われて学校に通いました。
当時の机は二人用の長机で、次姉と私はいつも隣同士に座り、まるで双子のようでした。次姉は長い時間学校にいることが難しく、午前の授業が終わると家に帰るのですが、なぜか私も一緒に帰ることになっていました。
同級生たちが校庭で遊んでいる姿を横目で見ながら、「もっと学校にいたいな……」と思ったものです。
そして小学二年の秋、次姉は東京・世田谷にある養護学校に転校し寄宿生活をすることになり、和島村を離れて行きました。私も寂しかったですが、家族と離れた次姉の方がもっと寂しかったに違いありません。