帰国(六十二歳):米国から日本へ

還暦で引退を考える。辞職のタイミングを上司と相談。

会社が特別な規則を作ってくれて、私は会社を辞めても、一年間だけ無給での在職扱いになり、その間ストックオプションの行使が可能になるように配慮してくれた。また、残っていた有給休暇も換金してくれた。優遇に感謝。

実は、引退後の落ち着き先として、初めはカナダやアメリカの他の州などを候補に挙げていたが、日本は入っていなかった。結局、日本になったのは他のところは条件の一つを満たさなかったからだ。その条件というのは、車がなくても快適な生活ができるということだった。

二十年ほど前になるが、今の日本と同じように、アメリカでも高齢者の交通事故が多く、いつかはやめなければいけないのだったら、この際車なしの生活を考えようと家内と意見が一致していた。本当は、ドライブが好きで暇さえあれば出かけていた自分に、そのような決心ができたというのは一つの驚きだ。

ただ、簡単ではなかった。日本帰国の可能性を考えるため休みをとって、二人でカナダ旅行に出かけた。バンクーバーからトロントまでの大陸横断鉄道の旅である。

カナディアンロッキーを観光した後、いよいよ二泊三日汽車に乗りっぱなしの旅。電話もインターネットも新聞もなく、三日間自分のコンパートメントと、二階の展望車を往復するだけ。食事も三食食堂車だった。自分で考えたり妻と話したりしたが、終点のトロントに着く頃には、日本帰国を決心していた。

私が転職した後、元の職場がどうなったかを見ておこう。大学の地質学科は面積も指導体制も半分になっている。石油会社の中央研究所は閉鎖され、やがて石油会社自体が他の石油会社に吸収されて今はない。

ベンチャー企業は、どんどん発展してマシンビジョンで世界トップシェアの画像処理の専業メーカーになっている。今でも株を持ち続けているので、その発展の恩恵を受けている。

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