源五郎出奔
俺に太田の名を捨てよ……と申すか……。
源五郎の性格では、父兄に考え直すよう懇願するなどあり得ぬ事である。無表情を取り繕ってはいたが、奥歯を噛みしめ、動揺をひた隠した。
まだ太田の跡取りは俺しかいないにもかかわらず、それを養子に出すなどと……。
そこまで俺を遠ざけようとするか……。
事ここに極まれり……。源五郎はやけっぱちになり、
「分かり申した! しかし供回りの者も使者も不要! それがし一人にて松山に行き申す! 御免!」
吐き捨てると、大股で居室を出て行く。それを資頼と資顕は目を見交わし見送ったが、存外事が円滑に運んだと喜んでいた。
源五郎は廊下を大股で歩きながら、蒸し暑い日和にもかかわらず、背に冷たい汗をかいている事に気が付いた。
俺はもう太田ではなくなる……。
道灌公の名跡を守る必要もない……。
それは巨大な喪失感とでも言うべき、虚無感であった。怒りなのか情けないのか、涙がこぼれそうになる。
それを必死に堪え自室に戻ると、つき丸が中庭で嬉しそうに尻尾を振り出迎えた。その姿を見た時……堪えていた誰にも見せた事の無い涙がぽろりとこぼれ、中庭に裸足で下りてつき丸を抱きしめていた。
「つき丸に見られてしまったな……」
無理やり笑顔を作り、両手でつき丸をかかえ上げる。つき丸は前足をぴんと伸ばした状態で首を傾げた。
「ははは……俺と共に行こう……」
源五郎は力なく笑うと、初めてつき丸と出会った時と同じ言葉を繰り返し言ったのだった。
その日の夕方、岩付城から源五郎の姿が消えていた。頭が冷えている頃だろうと、資顕が詳しい打合せのため呼び寄せようとしたところ、僅かな身の回りの物だけ持って出奔した事が明らかになった。
資顕は良日を選び太田の家格に合わせた供回りを連れさせ、松山城の難波田家に行かせるつもりだった。
が、弟の頑(かたく)なな性格は知っている。
本人が言っていた事でもあるので、「己が一人にて松山に向かったのであろう」とそのまま放置する事にしたのだった。
赤々とした夕焼けが岩付の湖沼群を染め抜いている……。
少し涼しくなった街道に、カナカナカナカナカナカナ……と蜩(ひぐらし)の声が寂しく響いていた。
岩付の城にいる事にいたたまれなくなった源五郎は、激情のままどこへ向かうでもなく城を飛び出したはいいが、今から松山へ行く訳にもいかず、人気の無くなった街道をトボトボと歩いていた。
その足元には、つき丸が必死になってついて来ている。寄る辺ない身の上となった自分を頼り、必死について来るつき丸が哀れに思え……。
その哀れさは自分にも当てはまると思うと、さらに情けなくなった。勢いで父と兄にあのように言い放ち、怒りに任せて城を飛び出したはいいが、行く当てとてなく寂寥に圧し潰されそうになった時……河原へ出た。
すると河原でつき丸と遊ぶまゆの姿を思い出し、善右衛門夫婦、熊吉の顔が脳裏に浮かんだ。松山ではそうそう会いに来る事も出来なくなるな……。
一言別れの言葉を告げてから去りたくなり、足は自然と善右衛門の家に向かっていた。