私が見つけて買った山林の話をしようと思う。昭和六十年、栃木県黒磯市箭坪の貸別荘もある平坦地で、農家の人が別荘業者に売ったとき、三百坪弱の三角形の土地が残っていた。交渉して百坪だけ分けてもらうことになった。
陽の光がまともに入らないほど繁った林で、休みの毎に行って「この木は残そう、この木は切ろう」と私が切り拓いて明かりを入れた。
三年間、展示されていた六畳に、上り段と押し入れ付きのプレハブを解体して現地に建て二十万円かかった。電気を引いてテレビをつけ、押し入れに夜具も揃えた。トイレは便槽を買って自分で埋め、小屋も造った。
今までに貯めた二百万円ほどのお金を全部使ってしまった。普通には買えない。その分、自分の労力で補う必要があるのである。汗したお陰で、休日には別荘地内で自然に浸り、のんびりとした幸せを感じたものだ。
入口には〝○平山荘〟の門標を、トーチランプ、彫刻刀、銀エナメルで手作りして掲げた。九年が過ぎ、予定していた早期退職も近づき北海道へ帰ると決めて、後髪ひかれる思いで人手に渡した。
買ったときの二倍半の値で売り、それを自己資金にして北海道に新築のマンションを買い引越して、一年足らずで売った。壁に欠陥があったのだ。那須の住宅は、家内が居座り別居した。働く人生は終わって、遊ぶ人生の始まりである。
バス停が錆びて傾きあくびする
作詞作曲 テープ化
昭和三十五年、十八歳の歌手がデビューしたとき、作詞者の歳が親子ほど離れていた。私はもっと若い人も歌詞を作れないかと思い、関心を持つようになった。自分にも書けると思い、マネごとを始めることになったのである。
友人から屋根裏でススけて、胴が破損したギターをもらった。板に弦を張ったようなもので初歩を覚え、そのとき浮かんだメロディの音符が、三十年後の曲作りに役立ったのである。運動が不得意であり、貧しさが起因したのか、ときどき詩を書いていた。二十五歳頃、サトウハチロー主宰の同人誌に佳作として、名前だけ小さな活字になったのである。
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