源五郎出奔
岩付城本丸館の檜皮葺(ひわだぶき)の屋根が強い夏の陽射しに焼かれ、やかましく鳴く蟬たちの声がそれに沁みいるようだった。
濃い軒の影が落ちる中庭で、城の生活にも慣れてきたつき丸をあやしながら、源五郎は太田の家が今後どのように扇谷上杉家を支えていくべきか……と沈思していた。
それは離合集散を繰り返す古河公方、山内上杉家、扇谷上杉家を纏め上げ、領土拡張意欲旺盛な新興勢力である北条家を、如何に食い止め倒すかに尽きる。
当主北条氏綱は、大永(だいえい)四年(1524)正月、源五郎が僅か二歳の時に多摩川を越えて、扇谷上杉家領国への本格的な侵攻を開始した。
氏綱は長享(ちょうきょう)元年(1487)の生まれで三十二歳の時に当主となり、初代伊勢宗瑞の伊勢姓から北条姓へ改姓し「祿壽應穩(ろくじゅおういん)」の印判、伝馬制度の創出、支城制、特出する検地と郷村支配方法を展開し、民の事を重んじ領国統治体制を築いた知将で戦にも強い。
瞬く間に相模最北の津久井城、武蔵多摩の由井城、戸倉城、勝沼城を落とし、その領域を一気に武蔵中部にまで拡大し、更に江戸城を落とし難なく扇谷家の本拠の攻略を遂げ、山内上杉家、扇谷上杉家に匹敵、圧迫する領国を形成した。
一時、源五郎の父太田資頼を従属させ、古河公方足利家の奉公衆の渋江右衛門太輔の岩付城を攻略したが、甲斐の武田信虎と同盟し後援を受けた扇谷上杉家に資頼は帰参し、北条は短期間で岩付城を失っている。
扇谷上杉家はかねてより北条氏と敵対関係にあった甲斐武田信虎と同盟を結び、連携を取った事で一進一退の攻防が繰り広げられ、現在は戦線が膠着していた。
扇谷上杉朝興は河越城を領土回復の拠点とし、北条の侵攻に備えているといった状態だった。