一歩
秋になると、切花よりも苗物が多くはける。
ビニールポットに入って三つで千円というようなものだが、客は長い時間かけて選んでゆく。アルバイトの有美は白い指を泥だらけにしてポットの入った篭を手際よく店頭に並べる。
花屋の仕事は手が荒れる。切花には棘もあるし、手は水に浸かりっ放しだ。土いじりにいちいち手袋をはめるわけにもいかない。美智子が有美の手が荒れるのを惜しんで言ったことがあるが、本人はいっこうに頓着しない様子だ。
若いころは持っているものの価値に気づかないものだ……
美智子も指が長くほっそりとしていたが、家事や畑仕事で硬くなっていた。花屋で働くようになってからは使い勝手の良い丈夫な手だと思うようになった。
手といえば……
園芸の講習で会った田村という男性。商社の人で、グループが一緒になって園芸の勉強をした。終了式の後、小さなパーティがあって帰途についた。
別れ際、田村はありがとう楽しかったと言って手を差し出した。美智子は握手と思って何気なく握ったのだが、衝撃を受けた。田村の手は大きくて厚みがあり、温かくて、柔らかかった。その両手が美智子の右手を包み込むようにしたとき、手ばかりでなく体中を包み込まれ、魂まで引き寄せられた感覚になった。
美智子の体がゆらりと揺れた。
田村が素早く支えてくれたので、立ち直ることができたけれど。動揺を見透かされたようで、恥ずかしさに体が火照った。事務屋さんで、ペンよりほかに硬い物を持ったことがないのだ。温厚な人柄もそんな恵まれた環境の中で培われたものだろう。
田村の薬指のリングが美智子の指に触れた。
この人は自分とは別の世界の人だ。
その晩、床の中で、美智子は夫の孝介の手を探った。硬くて節があり、たくさんの畑仕事と土木作業をしてきた手だ。どうしたんだと聞かれて、ううん、何でもないけど、と言いながら、小指から順繰りに節を手繰ってゆく。
美智子の胸の中が温かくなっていく。男の人の手はみんなこんな風にごつくて硬いと思っていた…… 指輪もない。孝介が握り返してきた。