陶器場では鈴木が一心に日毎に少くなる飯ごう食器の補いにと轆轤を踏んで赤土器の碗を造っている。山羊の骨から作った下痢止の炭をヤコから貰い、工場を出た。
G・P・Uは一体保を如何しようと云うのだろう。毎日同じ不安、同じ希望の明け暮れをピンセットを持つ手に繰り返す裡に保は不図した風邪から発熱しフェルチェンクウから還れば癒る病気だから病名は分らぬが入院せよと云われブルンク、シェシャルクからも少し休みなさいと六病棟へ入院させられた。
カラカンダとの交通が再開した今では、一週に何回となく送られてくる病人の数は相当なもので、入院者は所見があっても熱が無ければ退院させられるといった世智辛いもので、退院して再び炭坑へ行かせられるのを拒む捕虜たちは、朝夕の検温に体温計を腋の下で摩擦してでも目盛を上げ様とする者が多かったが、保は以前マラリヤで入院した大川が退院後そのまま六病棟附きになっており検温も必ず七度前後に記入してくれ、こっそりアメリカンスキービタミンとカルシュウムの瓶をとどけてくれ、西口からは小さなベニヤ板を貰い下手な詩なぞかいてはガラス片で削る平和な日夜を送る事ができた。
毎日の散歩途中ブルンクは病室の小窓から「保、イカガデスカ」と真赤な顔を突込んで病人達を笑わせた。六病棟は割合軽症者が多いので保が二病棟の臨終者のベッドへ遺言や住所を聞きに行った時に耳にした「死にそこない、早く死んでしまえ」「彼奴はどうせ今晩あたり死んじまうんだ。何を聞いたって分るものか」「助けて下さい。自分はもう死ぬんでしょうか」といった恐ろしい場面は見られなかった。
一日中横になった儘なので早く寝つく者は少く、話も爰(ここ)二年間食物とコックリサンを持ち出して迄の帰国の話も語りつき今では各人の妻子、恋人の事許りである。保には其様な話が遠い処の物語に思え自分は神経が鈍かったのかなと思ったりした。