二 なぜ、「不適切なかかわり」はなくならないのか

〝不易信仰〟という病

自分の価値観だけを、あるいはこれまで出会ってきた子どもとの関わりの経験と、その成功例だけを根拠に目の前の子どもに接している姿勢は、思考停止状態と言われても仕方がない。思考停止した視点では、あらかじめ用意された答えによって子どもを見ることしかできない。

そうなると、子どもにどんな問題が起こっていようが、どんなに悩み、苦しんでいようが関係なく「この子はこういう子だ」と決めつけ、まったく的外れの指導を重ねてしまう。

そして、それが通じないとわかったとき、「こんな子は見たことがない」とか「どうしようもない」として見放すのである。

私は、どんなことにも絶対的に正しい真理はないと思っている。教育もその時代によって変遷する。何を一番に伝えるか、どのように伝えるかは、社会情勢の影響を受けて変遷するのだ。 

かのスプートニク・ショックは、その典型的な例だろう。教育ですら普遍であるかどうかわからないとしたら、教育よりも限定的である学校教育が、社会の影響を受けるのは当然である。日本における近代の学校教育を不易と考えるのは、実に狭窄(きょうさく)な思考であると言わざるを得ない。

そして、地域には地域教育や社会教育があり、家庭には家庭教育がある。学校教育はその中の一つに過ぎない。にもかかわらず、学校は学校教育(特にその基本的なシステム)を不可侵のものと捉えてきた。

そのため、教員は、学校教育が社会の影響によって変わらされることに理不尽さを感じてしまう。本来なら、学校教育は学校教育の範疇を守ればいいわけで、社会教育や家庭教育までのすべてを背負い込む必要はない。

確かに、これまで学校が実践してきた全人格的な教育は、子どもや保護者、地域と密接な関わりによって成果を挙げてきた。しかし、いま学校はその重みに耐えられなくなりつつある。

また、高度に経済が成長していた頃やバブル景気の頃の価値観を絶対視する傾向も、学校には根強く残っている。

例えば、努力や勤勉、まじめさ、そして、いま我慢すれば必ず将来良いことが待っているといった考え方は、経済成長がほぼ期待できない現代においては、価値そのものが相対化され始めている。誰もが同じ目標を持てることができた時代は、もう終わっていると考えるべきだ。

私には、多くの教員が社会の変化を自ら拒否しているかのように見える。その虚しさに早く気づくべきだ。そして、うまく説明できないが確かに存在する、自分の中の違和感に目を向けてほしい。

そうすれば、問題が教員のみに起因するのではなく、学校のシステムそのものにあることに気づけるはずだ。