第一部  夢は枯野をかけめぐる

隠遁

三十七歳の秋、神田川上水工事監督の仕事も、江戸俳壇若手宗匠の名声も、全てを放棄して、杉風所有の深川の庵(現在の深川芭蕉記念館)へ、単身で移って来た。

現在の深川芭蕉記念館の屋上から、私は眼前の風景を見た時に、〝衝動〟とも〝納得〟とも言えるものを感じた。墨田川河口から広大な海(東京湾)へと広がる展望、眼前に聳え立ったであろう名峰富士。今では高層ビルに隠されているが、芭蕉の時代では、雄大な富士山が眼前にせまってきた事であろう。

以下全く推測であるが、何かの話のなかで、弟子の杉風から、かれの持つ深川の作業小屋からの風景を聞き、そこを訪れた芭蕉は大変な衝撃を受けたのではないか。これこそ、深く敬愛していた西行法師や、中国の李白・杜甫の詩の根源をなす風景である事を直感した。

そして今、自分はとんでもない誤った俳諧の道を進んでいる事に気づいた。北村季吟を師とし、古典文芸を熱心に勉強した芭蕉は、日本にあっては西行法師の、中国にあっては、李白・杜甫の格調高い詩の世界〝侘び・寂び〟に強い憧れを抱いていた。その風景が眼前にある。その時の歓び。おそらく、富士山頂初冠雪の頃か。

深川三またの辺リに艸庵を侘て、遠くは士峯の雪をのぞみ、

ちかくは万里の船をうかぶ   俳文「寒夜の辞」

しかし、住んでみて、現実は予想以上に厳しかった。物心ともにどん底の生活であったと想像できる。貧すれば、それだけで詩が書けるものではない。

乞食の翁 句文 泊船堂主 華桃青

窓含西嶺千秋雪門泊東海万里船

我その句を識りて、その心を見ず。その侘をはかりて、その楽しびを知らず。ただ、老杜にまされる物は、独り多病のみ。閑素茅舎の芭蕉に隠れて、自ら乞食の翁と呼ぶ。

櫓声波を打つて腸氷る夜や涙貧山の釜霜に鳴る声寒し

      買水

水苦く偃鼠が咽をうるほせり

      歳暮

暮暮て餅を木玉の侘寝かな

句文の最初の漢詩は、杜甫の詩の一節。「西に千年の雪を頂く山をながめ、眼前に巨船が浮かぶ風景に住んでも、私はそれを杜甫のように、詩に表現して楽しむことが出来ない心身ともに極貧の乞食老人である」の意。

芭蕉野分して盥に雨を聞く夜かな

このような心身ともに行き詰まった状態で、芭蕉の人生観に深い影響をあたえ生涯師と仰ぐ僧に出会う。根本寺住職佛頂である。佛頂が住んでいた臨川庵と芭蕉庵とは、小名木川という堀川を渡って、徒歩十五分くらいの距離である。