人間本来無一物

芭蕉が佛頂より学んだ究極の教えは〝人間本来無一物〟である。

芭蕉は自らを「風羅坊」と自称し、外面も内面も、生涯その通りの人生を送ったのであるが、当時、心身共に窮地にあったこの時の芭蕉が、これから進むべき行方の、突破口を求めて、佛頂の門をたたいたということではないだろうか。

芭蕉が、どの様な形で、佛頂と面会したか、公式の記録はない。臨済宗根本寺住職の佛頂和尚の知識・人柄については、風評として、知っていたかもしれないが、出会いの具体的な様子は記録として残ってはいない。逢ってみて、忽ちその知識、人柄に感銘を受け、日夜通い続け、奥深い禅の世界に傾倒して行ったと想像する。

佛頂和尚は、芭蕉より二歳年長である。当時、臨済宗妙心寺派根本寺の住職(最高位者)であった。

徳川家康より、東関東の鎮護の拠り所として、隣接する鹿島神宮と等分の、百石を寺領とされていたものを、鹿島神宮が勝手に根本寺分の五十石を取り込んでいることについて、原状回復の訴訟を幕府に起こしていたものである。鹿島神宮を誹謗中傷せず、ひたすらに、正義の回復のみを訴え続けた態度は、関係者各位に感銘を与え、八年間かかったが、根本寺の勝訴となった。

佛頂が仏道を志した幼少時のエピソード。

まだ幼い時、近所の明蔵寺の柿を盗み取ろうとして、寺の住職に見つかった。日頃、父親に、何かと殴られていたので、どんなお仕置きを受けるかと恐れていたが、住職は、今年は柿も少なくなってしまったが、来年もう少し早く来れば沢山たべられるよと言って、頭を撫でてくれた。

坊さんになればこんな人になれるのかと、感動したのが発心の動機であったと伝えられている。父は粗暴な人で、母親は溺愛の人であった。

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