黒き尉面
「ありがとうございます。精進させていただきます。ところでお兄様宮王道三様のご容態は如何ですか」
「ありがとうございます。兄とは二〇歳の年の差がございます。もう年ですので難しいでしょう。跡継ぎもおりません」
「猪之助殿の肩の荷が重くなりますな」
「宮王家は庶家とは言え、祖父金春禅竹、曾祖父世阿弥の血を引く家です。金春座の脇家の職を守らねばなりません。もっとも私は『小鼓』専門のようなものですが」
「しかし小鼓では、今や『都の幸(こう)』『堺の宮王』と名を馳せておられます」
元々大和四座は、奈良の興福寺や春日大社の神事に奉仕していた。申楽も初めは神に供えるものであった。観阿弥・世阿弥が、都で将軍足利義満に贔屓されるようになり、都でも興行するようになる。
この頃になると各地に広がり、駿河の今川氏、美濃の土岐氏の他、織田氏、越前の朝倉氏、筑後の蒲池(かまち)氏などでは「幸若舞」なども各地に広がっている。後の豊臣秀吉の申楽好きは有名で、金春安照に師事し「自らの曲」を作り、自ら舞っている。龍右衛門作の三面の小面は、秀吉の愛蔵として特に有名である。
「雪の小面(こおもて)」(金剛流宗家所蔵)「花の小面」(三井記念美術館所蔵)「月の小面」(焼失)の三面である。
徳川家康の代になると喜多流が加わり、「四座一流」が幕府の式楽となる。明治になり「幸若舞」は廃絶するが、「申楽」は名を「能楽」と改め現在に至っているのである。
三郎は、故事来歴に詳しく、特に和歌の素養に溢れていた。宗易の茶の湯の世界に、申楽と和歌の世界が広がっていった。稽古はいつもあっという間に終わった。しかし、その後も和やかに話は続いた。
その場には常に、三郎の妻りきがいた。三郎とは二廻り年が離れている。宗易よりは、七歳年下であった。宗易には四歳になった息子「紹安(じょうあん)」(後の道安(どうあん))がいた。そして三郎夫妻にも、同い年の「猪之助」(後の少庵(しょうあん))がいたのである。その事も会話を和やかにしていた。
「今度は、奥様と紹安殿も、是非ご一緒にお越しください」
「ありがとうございます。猪之助殿は、世阿弥様から数えて六代目の血をひいておられるお方。これからが楽しみでございますな」
「恐れ入ります。先日『鞍馬天狗』の稚児役で、初舞台を済ませました」
りきは、嬉しそうに宗易に答えた。