第1章

夢に出会った小・中学校時代

私が中学生になると、もはや父の商売仲間の家に寄留することができず、今成町の子供達が通う富士見中学に行くことになった。しかし私が中学2年生になる時、今成町の人口が増えた為、私達が住んでいた地域は今成町から分かれて月吉町となった。

それとともに学区編成が行われ、私達の地域の子供達は初雁中学へ行くこととなった。私はそのまま富士見中学に通うこともできたのだが、初雁中学には小学校時代の友達が通っていたこともあって、2年生から初雁中学に転校した。

丁度、1964年の東京オリンピックが開催された年で、東洋の魔女とうたわれた日本女子バレーボールチームに大変人気があり、私もそれに影響されて部活はバレー部に入り、放課後はバレーボールの練習に明け暮れた。学業の方も、5段階評価でオール5とはいかずとも4が1~2個混ざる成績だった。

この年、初雁中学バレーボール部は市の大会で優勝し県大会に進んだ

交換留学生として渡米した高校時代

埼玉県の県立高等学校は、どういう訳か男女別れている。兄は埼玉県立川越高等学校(通称・川高)へ行ったのだが、私は埼玉県立川越女子高等学校(通称・川女)へ行った。川高も川女も進学校で、殆どの者が東京にある大学に進学する。

しかし私は、高校2年の終わりごろ、学生運動(1968年~1970年は、全共闘運動大学紛争の時期)に揺れ動く日本の大学に行くことに疑問を持つようになり、留学の可能性を考えるようになった。

川女での私は英語部に属していた。当時の川女の英語部は、部員を様々なスピーチ・コンテストに参加させることに力を入れており、先輩の中には全国即興スピーチ・コンテストで上位入賞をした者もいた。

私も地方(確か入間地方だったと思う)のスピーチ・コンテストに出場し3位になった。この頃、なんとか英語を上達させたいと思った私は、今になっては、題名をはっきり覚えてはいないのだが『英語を上達する方法』とかいう本を購入した。