【前回の記事を読む】南アフリカ航空の同僚の両親の家で一泊することに。『ポツンと一軒家』に出てきそうな彼の家で楽しく会食していたが、その夜…
第2章
米国ボストン大学で猛勉強ジャーナリズム学士号を取得
南アフリカ航空で働いて1年弱経った時点で、私はアメリカの大学に行くことを真剣に考え始めた。
この頃私は、ワシントンポストのジャーナリストであったボブ・ウッドワードとカール・バーンスタインがウォーターゲート事件について書いた『All the President’s Men』という本を読んで、「ペンは、剣よりも強し」とは正にこのことだと感動し、アメリカの大学でジャーナリズムを学ぼうと決めた。
因みに、現在のウッドワードとバーンスタインは超急進派思想を持ち、ジャーナリストの真髄である客観的に物事を見てレポートするということができない、ジャーナリストの風上にも置けない者達に変わってしまった。
南アフリカ航空を退職した私は、短期間の川越での滞在を経て、1977年の5月上旬、アメリカ合衆国マサチューセッツ州のボストン市郊外にあるローガン空港に降り立った。
ボストンには、ハーバード大学やマサチューセッツ工科大学(MIT)を始め、100以上の大学がある(注:ハーバードもMIT も実際はケンブリッジにある)。アメリカで一番古く由緒ある音楽学校であるニュー・イングランド・コンサバトリー・オブ・ミュージック(New England Conservatory Of Music)もある。
因みに、小澤征爾が指揮を務めた、ボストン・ポップスやボストン・シンフォニー・オーケストラのボストン・シンフォニー・ホールもこの音楽大学の近くにある。
私は初めてボストンに来た時、この音楽学校の近くにあった古いタウンハウスの一部屋を2か月間借りて住んだ。このタウンハウスの他の住人は全て音楽学校の生徒で、何度か彼らが開いたフリーコンサートに誘われた。
この時点で、ボストン大学のSPC(School of Public Communication)に入ることが決まっていたのだが、授業が始まる9月まで英語をブラシュアップする為、英語の夏期講習を受けた。そして9月、レイバー・デイ(勤労感謝の日)明けにいよいよクラスが始まった。
私はできるだけ多くのクラスを取り、単位を早く取ることに専念した。ここまで色々と寄り道してきた私は、同学年の人にかなり遅れをとっていたので、通常4年間で習得する学士号を3年間で取りたかったからである。
その中で、私が最も印象に残る科目は、News Report Writing 101。このクラスを教えたのは、現役の『ボストン・グローブ』紙のレポーター。初めの課題は、新聞に載せるObituary(死亡告示)の書き方、その後、事件の書き方に進む。