第2章
アパルトヘイト政策の基では、日本人は名誉上の白人
私達が住んでいたアパートの別のフロアに日立製作所から単身赴任でヨハネスブルグに派遣された佐藤さん(仮名)という人がいた。
この佐藤さんを通じて私達は内藤さん一家やヨハネスブルグに住む他の日本人数人を知るようになり、皆でテニスを楽しんだり、内藤さんのお宅で「希少な」和食を頂いたりした。
当時のヨハネスブルグは夜の独り歩きができるくらい安全な場所だった。後に米国農務省の仕事で再び南アフリカを訪れた時のヨハネスブルグの変わりようには、大変驚かされた。私が以前住んでいたヒルズボローは、麻薬、窃盗、殺人等の凶悪犯罪が横行していてとても危険なので近くに行くことすらできない状態だった。
南アフリカは南半球に位置し、一般に温暖な気候で自然豊かな美しい国だ。私は、フライトアテンダントの訓練として幸運にも南アフリカの主な都市を訪れることができた。ダーバン、ポートエリザベス、ケープタウン、ウィントフック(現在は独立国ナミビアの首都だが、私が南アフリカにいた時は、ナミビアは南アフリカの一部だった)等。
アフリカといえばサファリ。ある日の休日、私は南アフリカ航空の同僚のヨハン(仮名)の案内で、南アフリカ最大のサファリであるクルーガー国立公園を訪れることになった。
内藤さんの⾧女みどりちゃん(仮名)(当時小学6年生ぐらいだったと思う)も同行した。ヨハンの両親の家はクルーガー国立公園近くにある為、私達は彼の両親の家に1泊し、翌日クルーガー国立公園へ行く予定をたてた。
ヨハネスブルグからヨハンの運転で数時間走ったところでヨハンが車を停めた。あたりは建物など全くないサバンナ。ヨハンは、私達に友達を紹介するから車から降りて、付いて来るように言った。
私達は半信半疑でヨハンに付いて行くと、目の前に、首⾧族の黒人女性3人と幼児が現れた。女達は首に輪を幾つもして人工的に首を伸ばしている。
また、耳も何かをはめ込んで耳たぶを異様に大きくしたのだろうか、耳たぶは肩の近くまで垂れ下がっていた。ヨハンは、何語なのだろうか、私の知らない言葉で彼女達と楽しそうに話をしていた。
因みに、南アフリカの公用語は、アフリカーンズである。これは、オランダ語と非常によく似ている。南アフリカがオランダの植民地だった頃にできた言葉だろう。その後、南アフリカは英国の植民地になった為、英語は殆どの場合通用する。
しかし、この女達が話しているのはアフリカーンズでも英語でもない。
ここでは、一言に黒人と言っても、様々の部族があり部族ごとに、言葉が異なるということだ。えー、これが本当に言葉なのと思うような、舌を上顎につけて素早く離す時に出る音を使った「クリック・ラングエージ」というのもある。