ヨハンの両親の家は、『ポツンと一軒家』に出てきそうな、大草原に一つだけ建っている家であった。
ポータブル発電機があったように思うが、夜は蝋燭をともしたように記憶している。晩御飯は、ヨハンの母親の作った肉料理で、父親は南アフリカ産の赤ワインを美味しそうに飲んでいた。
しかし、その夜の3時頃、みどりちゃんと私は、ヨハンとお母さんの話し声とすすり泣きで目を覚ました。なにが起こったのだろうとみどりちゃんと話していると、ヨハンが部屋に入って来て、お父さんが心臓麻痺で亡くなったと告げた。
つい数時間前まで一緒に楽しく会食していたヨハンのお父さんが死んでしまうとは、人の命のはかなさを実感した。ヨハネスブルグの友達に連絡して迎えに来てもらうとヨハンに言うと、自分が車で君達をヨハネスブルグまで送り返すと言い張った。
朝、私達はクルーガー国立公園のゲートまで行き、公園内には入らず、ゲートの前で写真を撮り、ヨハネスブルグに帰った。
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1976年6月16日、ヨハネスブルグの外れにある黒人住居区であるソウェトで、大規模な反政府デモが起こった。丁度その時、私はフライトで香港に来ていたのだが、機⾧をはじめとするフライトクルーの間では、ヨハネスブルグで暴動が起こったので、このままヨハネスブルグに戻ることはできないのではないかという懸念の声が上がっていた。
この反政府デモは、その後更にエスカレートして行ったが、アパルトヘイト政策が完全に撤廃されたのは、1991年だった。
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