第1章

生意気な小娘だった幼少時代

小学校3年生になって間もなく、春の遠足(確か埼玉県比企郡吉見町にある史跡の吉見百穴だったと思う)からの帰り道、私は、鷹部屋(現在の末広町3丁目あたり)の坂の上あたりで、皆と別れて一人で歩いて帰った。

家まであと100メートルぐらいのところで、突風が、私の目の前に落ちていた波型トタンを吹き上げた。トタンは、私の左眉毛に直撃した。近くで畑仕事をしていた近所の叔母さんが、「恵美ちゃん大丈夫?」と言った。トタンが当たった直後は痛みを感じなかった私は、「うん。大丈夫」と言って歩き始めた。

しかし、10メートルも歩かない内に、真っ赤な血が、母が遠足の為に新調してくれた白いブレザーコートの上に流れ出た。びっくりした私は、泣きながら家に走り帰った。母が家で応急手当をしてくれ、直ぐ私を赤心堂病院へ連れて行った。幸い傷は目には及んでいなかったが、6~7針縫った波型の傷跡は、その後ずっと私に付きまとうことになる。

祖父は、「恵美子はそれでなくてもまずい顔なのに、こんな傷があったら嫁に行けなくなる」と言って、薬局から傷が薄くなるとかいう塗り薬を買ってきて、毎日私の傷口に塗った。

小学校の高学年になると、日曜日は、TBSの『兼高かおる世界の旅』を見るのが楽しみだった。当時、私の周りには外国へ行ったことがある人は一人もおらず、テレビで見る以外、外国人も見たことがなかった。

前に記したが、幼い頃私は外国といえばアメリカで、外国語といえば英語だとばかり思っていた。というわけで、兼高かおるが世界の色々な国を訪れてその国の人達と会話し、文化や風習を紹介するのに大きな衝撃を受けた。兼高かおるが紹介した、タイの首都バンコクを流れるメナム川(現在のチャオプラヤー川)の水上で生活する人々や、ニュージーランドのマオリ族の民族舞踊、ウィーン少年合唱団の寄宿舎の様子等は、いずれもとても興味深いエピソードだった。

そして、これが後の私の人生に大きな影響を及ぼすことになった。この頃から、私の夢は将来外交官になることだった。

この夢は、後に日本の外交官でなくアメリカ合衆国の外交官という形で実現する。因みに、外国と関係を持つ仕事は他にもあっただろうが何故外交官を選んだのかというと、今では、商社、航空会社、外資系の会社、JAICAで働く等選択肢は色々考えられるが、この頃の私には、外国と関係を持つ仕事は、外交官以外に思い当たらなかった為である。