余談であるが、丁度この頃私は、マーガレット・モンゴメリの『赤毛のアン』を読んだ。確かその中で、アンのボーイフレンドのギルバートが、アンの髪の毛の色が人参のように赤いといった箇所があった。
黒髪の日本人しか見たことがなかった当時の私には、赤毛というものは、全く想像できなかった。ましてや将来、赤毛の男性と結婚することになるとは夢にも思わなかった。
時は、日本の高度成⾧期時代。両親が営むお煎餅工場の中で育った私の生活環境は、一般の家庭のそれとはかなり異なっていた。まず、私の両親と兄と私は、工場の敷地内にある2階建の木造住宅に住んでいた。その建物は、2階に8畳の両親の寝室、1階は6畳の和室と10畳くらいの、今でいえばフローリングの子供部屋とトイレのみという間取りであった。台所やお風呂はそれぞれ別の建物に食堂と浴場という形であった。
これは、お煎餅工場に常に数人の住み込みの従業員がいて、食事や入浴は皆でシェアするからであった。家族と従業員合わせて十数人の食事を作るのは、私の祖母であった。祖母は、私が覚えている限り、まるで海老のように腰が曲がっていたのだが、毎日川越市内までショッピングカート用の乳母車を押して買い物に行っていた。
その頃は、通い、住み込みを合わせて、20人程の従業員がいた。その中で最も印象に残っているのは、住み込みで働いていた、まーちゃんと、ふーちゃんである。当時、彼女達は、17 ~ 18歳だったと思う。
ふーちゃんは茨城県の土浦近辺から、まーちゃんは鹿児島県の口永良部島から来ていた。二人共私をかわいがってくれ、給料日になると川越市内にあった鶴川座という映画館のはす向かいにあった中華料理屋に「支那そば」を食べに連れて行ってくれた。
まーちゃんが仕事をしながらよく歌っていた
「あたいげんどん ちゃわんなんだ日に日に三度もあるもんせば きれいなもんごわんさー ちゃわんについた虫じゃろかい めごなどけあるく虫じゃろかい まこてげんねこっじゃ わっはっは」
という歌は、今でも覚えている。 この従業員との「共同生活」は、私が中学生になった年に、父が工場の隣の土地を買って一戸建ての家を建てた時まで続いた。