【前回の記事を読む】物理的事象を連続的に語ることができる空間で、時間の因子だけが独立し得ることがあり得るか?
第1部 相対論における空間の問題
3 移動する列車と同時性の問題
特に、相対論が正しい場合でも、動く列車の中央に立つ人が、車両前後の点灯時間を同時と認識することはないだろうという意見は、大きな盲点と言えるだろう。
相対論の言い分は、運動状態の如何にかかわらず光速度は一定である、なのだった。たとえて言うなら、太陽に対して静止状態にある宇宙ステーションにいる人にも、かなりの速度で太陽に向かう宇宙船に乗る人にも、太陽光の速度は等しく見えるはず、ということだ。
つまり1つの光源に対し、動く人と動かぬ人とによる見え方を比べなければならないのであって、それぞれに別の光源を用意するのであってはならない。
すなわち、車両の中央に人が立ったままでは思考実験としての意味をなさないのだ。その人は前後どちらかの方向へ歩き、中央から外れて、それでも彼の目に入る光が同時と認識されなければならない。
この思考実験では、列車内の目撃者は光源に対して静止状態であることが意図されている。つまり列車の内部のみ独立した静止系として設定されており、その意味で列車外の人と変わりなく両方からの光が彼のところで交わると読者が受け取るよう仕組まれているわけである。その点を考えただけで、この思考実験の欠陥が明らかになる。
たとえばだ、列車を極端に長くして、中に2人用意する。1人は中央に立つ。もう1人は地上に立つ人間を目視し、同じ位置を保持するように走る。いろいろ非現実的だが、思考実験とはそういうものだと割り切ってほしい。
2人とも目の前で光が交わる場面を見ることはないと、まずは直観的に思うはずだ。相対論はもちろん中央に不動のままの人が、目の前で光の交差を見るとする。私は逆だと思うが、これは水掛け論としておいてもよい。
ところで、中央の人が光の交差を目撃するというところまで、一応譲歩するとして、その時刻は中で歩く役の人にとっては過去なのか未来なのか。さしあたり列車の中は同じ時間が流れると想定しているのだから、同時刻でなければ変である。
それとも、中央から遠ざかる動きをしているのだから、その分さらに遅い時間の流れになるのが正しいのか。でも、その人にとっては車窓の外に見える人と同じ時間の流れでなければおかしい。つまり、中央の人よりも早い時間の流れを経験しているべきである。
この段階で、はっきり理解できなくともよいかもしれない。とりあえず、何となくおかしいところがあると感じられれば十分だ。
この思考実験もどきの、解きほぐすことが面倒で多くの人が惑わされる所以は、いくつもの錯誤が織り込まれているからと言える。ただし、その最大のものはエレベータの思考実験と同じ、単なる壁で囲った部屋にすぎぬ空間を、物理的な意味での独立空間とみなすところだ。