第1部 相対論における空間の問題

相対論という難攻不落の城に、時間の側から攻めるのか空間という入り口を選ぶのかを問われるなら、空間論から始めることが正解であると迷いなく言える。古来、時間論は数多く語られたが、哲学としての空間論はそれほど類例を見ない。時間という概念の難しさを表すものだと思う。

ただし、それは必ずしも自然において時間のほうが複雑であることを意味しない。どちらかと言えばより単純であり、この余りの普遍性が手に負えなさの一因なのかもしれない。単純であるがゆえに、いろいろ不必要な観念で飾り、ことさら不可解に描きたくなるものなのだろう。

たとえば私が日本の片田舎でベロ・オリゾンテの大通りを歩く白昼夢を見たとして、距離の壁を越えたという思い込みは持たないが、記憶は時間の性質の1つと考えられている。これは不思議なことだ。空中浮遊の夢を見たからといって、重力は否定されたと考える人はいない。

しかし記憶によって過去との何らかの関係を持つと思う人は大勢いる。時間だけがあたかも、人間の思い込みによる勝手な属性を付与されるようではないか。相対論においてもこの事情は変わっていない。お互いの時間進行が遅いものと認識される、ということは、すれ違うどうしはお互いを縮んでいるとみなす、ということと全く同型である。

ではなぜ時間の側にはパラドックスが考案され、空間については無視されるのだろうか。それは簡単に言ってしまえば、相対論の非現実性や、誰にでも理解できるはずの矛盾を、全部時間のあいまいさの方へ押し付けてしまえば、なかなかその事実を指摘しにくくなってしまう、ということだと思う。

人はすでに、時間の概念に対して、難しくひねりすぎる、ことさら難解に解釈したがる、という歴史を持っている。いや、誤解しないでいただきたいのだが、時間について、難しい点などないと言いたいのではない。自然現象を正しく理解しようとすれば、すべて難解であり、時間ももちろん例外ではあり得ない。

ただし時間は常に自然現象の分析という範囲を超えたところから語られてしまう。すでにいくつもの「謎」、パラドックスが相対論の時間概念の上に築き上げられてしまっており、むしろ、それらの存在こそが相対論の偉大さを証明する、というところにまで人々の認識が至っている。矛盾があるのだから、その理論は間違っている、と正しく言うことは非常に困難だ。