第一章 地方分権国家としての隆盛

1.「みやけ」

「屯倉(みやけ)」の初見は

書紀では垂仁天皇の時に、「来目邑(きめむら)に屯倉(みやけ)を興した」とあります。

また、記紀共に次の景行記(紀)でこの天皇の御代に(諸国に)田部(屯倉)を作った(定めた)とあります。田部というのは、そこで稲作りをする民とその土地を意味しています。記紀の編者から見て、田部・屯倉は相当昔からあったという認識が読み取れます。我が国の古代史においては、「屯倉(みやけ)」は「国家制度としての直轄領」という解説があります。

従来の大系本の解説では、『「屯倉(みやけ)」は御宅・屋舎・倉庫の敬称、郡家・正倉・私的な荘園を表し、書紀に出てくる屯倉は、「国家制度としての朝廷の直轄領だが、郡家や私的な荘園も(ミヤケ)と呼ばれていた」』と述べられています。意味が広範で漠然とした解説です。

それでは、本当に「国家制度としての屯倉」があったのかがこれからの話の始まりです。

私の疑問は、国家制度であったかどうかにとどまらず、そもそも「国家が先か屯倉(みやけ)が先か」なのです。

書紀には景行天皇が諸国に「屯倉」を置いたとあります。「景行天皇」はどちらかといえば昔の天皇であり、かなり広範囲の日本をその指揮下に置いていたとされていますから、この、屯倉は昔からあちらこちらに「あった」可能性を示唆しています。

しかし、「景行天皇(AD70~130年頃に推量されている)」が「創作された天皇」の認識に立つと、この「作られた・定められた」の「作った・定めた」主体が「天皇」であるという記述には疑義があります。

どういうことかといえば、景行帝の事績を精査すると何人かの事績がまとめて書かれているとの分析もあり、一人の王としての存在が疑われるのです。

即ち、天皇が出現する前から「みやけはあった」可能性は否定できないのです。

書紀には、国家制度として屯倉が組み込まれていたとする考えに矛盾する記述も多くあります。

ずっと下って、孝徳紀に「中大兄皇太子が百八十一箇所の屯倉(みやけ)を天皇に差し出した」とあります。

これは皇族とはいえ「中大兄」一人が持っていた屯倉の数です。決して「朝廷・国家」の持ち物ではありません。もしこの百八十一の「屯倉」が朝廷のものなら、そもそも天皇に献上する必要はないのです。

又、「伊甚の屯倉」や「廬城部の屯倉」等、献上された「みやけ」は「天皇」のものではありません。安閑紀で「伊甚の国造の大麻呂が春日皇女に伊甚の屯倉を献上」して、贖罪にした。とあり、廬城部連キコユが「廬城部屯倉」を献上したともあります。

これらを従来は、「献上された所領を朝廷が屯倉とした」と解釈しているようです。