ちょっと変わった少女時代

思えば親のことは何も考えていなかった。自分勝手なものである。その決定について、母が賛成や反対を言った記憶がない。今自分が親になってみて、もし子どもが郷里から遠く離れた大学に行くと言ったら、たとえ公立であっても、アパート代や交通費を思ってすぐには首を縦には振らないだろう。

しかもその頃、私の父は酒におぼれ、まともに働かなかった。その分、母は家業の弁当作りに加えて、下宿の仕事も増やし、生活費を稼ごうと必死だった。

私の進路についてゆっくりと話し合う暇などなく、ただ、可愛い娘の希望に応えようと毎日必死だったのかもしれない。その証拠に、大学に受かっている!と私が新聞での発表を告げたとき、母は調理場でただ、無言で立っていた。

喜ぶでもなく、悲しむでもなく、ただ何か考えているような顔をして立っていた。「ああ、これから益々お金がかかるなあ」と思ったのか、娘が遠く離れることを残念に思っていたのか、今となっては分からない。

とにかく私は山梨に旅立った。初めての本州での暮らしだ。しかし、引っ越したそこは想像とは少し違った。大学のパンフレットには大学の遠く向こうに富士山が写っていたが、実際のその町からは富士山は見えない。パンフレットは航空写真だったから富士山が写っていたのだろう。

借りたアパートの周りの植生も、想像とは違った。赤松と杉の木が主で、落葉広葉樹林だらけ、というわけではなかった。

もちろん、車で足を延ばせばそういう植生の林はあるのだが、私には自転車しかない。漕いで行ける範囲でしか楽しめないのだ。それでも、大学裏の楽山という小さな丘のような山には一部素敵なコナラ林があり、在学中はそこに幾度となく散策に行った。

一度その楽山を一人で歩いていたとき、野犬三頭に出会い、肝を冷やしたこともある。地味な町ではあったが、水は美しかった。あれは富士を源とするのだろうか。

とにかく雨でなくとも水路の水量が豊富で、小さな側溝も、大きな側溝も、豊かで澄んだ冷たい流れに満ちていた。落ちたら危ないだろうな、という危険さえ感じるほどの水量なのだ。

私は、もっと山梨の自然と触れ合いたいと思い、迷わず生物部に入った。生物部というとミトコンドリアとかを研究するのか、と思われがちだが、その大学の生物部は部員も少なく、やることといえば近隣の野山を巡って植物を観察するという、いたって気楽なもので、私の性にも合っていた。

そこで、先輩たちと富士の樹海に行ったり、三ツ峠に登ったりと、近隣の自然を大いに楽しんだ。