この他にも大蔵(現財務省)、通産(現経産省)、内務(戦後解体され、現総務省、国土交通省、警察庁などに分かれている)など他の省庁からの出向者もいて混成部隊で成り立っていた。
また軍部は陸軍と海軍から各々一名の武官が常駐。大使館とは別に独立した事務所を近くに構えてインテリジェンス、軍事情報の収集に当たっていた。
これに秘書、タイピスト、運転手、ボーイなど現地の米国人のスタッフを加えるとかなりの規模の組織になる。在外公館の中でロンドンと並んで最大規模だった。
次に大使館の組織運営を眺めておこう。
通常大使館の館員とその業務は大使の指揮命令系統に入り、日本と同様の上下関係で動く。唯一違ったのは武官たちだ。建前上は館員として大使の指揮命令系統に属したが、軍事情報に関する限り大使への報告義務はなく、派遣元の参謀本部または軍令部の情報担当部署に直接報告していた。
同様に本国の派遣元も軍事情報に関する限り大使館には知らせず、直接武官に知らせていた。武官が二人共大使館とは別に独立した事務所を構えていた理由もそこにあった。
この結果、大使館は武官が現地で入手した軍事情報、日本国内の軍事情報のいずれも共有されず、軍機に関する限り何も知らされず、蚊帳の外の状態に置かれていたことになる。
言い換えれば、大使館内に外務省を主体とする行政府の部署と軍部の部署があり、その間に情報の壁があったということになる。この根本的な原因は当時の大日本帝国憲法下の特殊な体制にあったが、これについては後程触れることになろう。
とはいえ、大使館といっても所詮人間の集まり。しかも日本から遠く離れた同胞社会。昼、夜の会食、週末のゴルフ、家族同士の付き合いなどで情報は漏れる。
機密度が高くなればなるほど漏れ易いのは世の習いで、軍事情報も大使館の中ではそれなりに漏れていた。唯、公務員法もあり建前上「秘密は厳守されていた」ことになっていただけの話で、全ては阿吽の呼吸で処理されていた。
そしてこの他にも特命と称する雑多な用命を帯びた人間種族が表面上は補佐官、武官付き補佐官など訳の分からぬ肩書きを付けて大使館の中をうろうろと動き回っていた。
その中の数人が我輩のご主人の赴任直後辺りからゴソゴソと動き出し、やがてとんでもない騒動を引き起こすことになろうとは誰も予想しなかった。