四 亜熱帯の気候と生活 1 島民が引き揚げ、島は本来の緑に
小笠原諸島は敗戦により、昭和二十(一九四五)年末には島民全員が、武装解除して日本本土に引き揚げ、アメリカの軍隊を除き、「無人の島」となったのです。セーボレーたちから始まった島民の定住生活は、一旦終わりを告げます。
翌昭和二一(一九四六)年十月、欧米系の一部島民とその家族一二九人のみ帰島が認められますが、その後、日本に返還されるまでの約二十年間は、島は静かな時を過ごすことになります。
この間、人気の無くなった集落跡には、戦争中、トーチカなどを隠すために利用された「ギンネム」というマメ科植物などが繁茂し、また、かつて軍用トラックが往来した道路にも、自然発生的に木々が逞しく生えていきました。
父島と母島の、昭和十九(一九四四)年頃の畑地の分布図を見ると、「小笠原の開拓は森林の掠奪的な破壊を伴って進められた」という記述があります。山の斜面という斜面はほとんど開墾し尽くされ、野菜などが植えられましたが占領統治によってこれらの旧耕地は、小笠原本来の緑に戻っていったのです。
ただ、母島の石門地域については、「学術参考保護林」に指定されていたこともあって、開拓は免れ、また、軍隊も入ることはなく、大切に保存されていました。
昭和四三(一九六八)年六月、小笠原諸島はアメリカ統治の時代を終え、日本に返還されます。返還時の人口は一八一人でしたが、その後の帰島促進策により、七年後の昭和五十(一九七五)年四月には一三五六人にまで増えました。それ以降は増加率が鈍化し、微増傾向で推移しています。
そして、令和三(二〇二一)年現在、父島に約二二〇〇人、母島に約四四〇人が住んでいます。硫黄島、南鳥島(マーカス島)には自衛隊とその関係者が常駐していますが、一般人は住んでいません。なお、これら四島以外は、無人の島となっています。