唐の時代
六一八年、高祖(李淵)が長安に唐を建国する。唐時代は北方に東西の突厥及びウイグル(トルコ系)、西方に吐蕃(チベット系)、南部に南詔(チベット・ミャンマー系)及びチャンパー(ベトナム系)、東方に日本が控えていた。
東突厥は服属させ、西突厥は討伐して朝貢関係を維持する。吐蕃とは公主降嫁して同盟関係を結ぶ。チベット・ミャンマーは冊封により、ベトナムと日本は朝貢関係とした。
朝鮮半島の渤海と新羅は冊封(官位を授けて諸侯に任ずる)としている。ウイグルについては、公主降嫁や使節交換によって友好関係をつなぎ止めるなど、活発な朝貢活動をしている。
国内の統治にあたっては、律令制や府兵制(兵農一致:徴兵制)を敷いている。三代皇帝高宗に至って、百済・高句麗を征伐するとともに法律制度を確立させる。しかし若くして病床に伏したために、皇后の則天武后に政務を譲る。しかしその治世は「武葦の禍」と呼ばれ、望ましくなかったようだ。親族縁者や寵臣(ひいきの部下)による専制政治が評価されなかったのであろう。それでも治世下において農民の反乱が一度も起きていないことからすると必ずしも悪政であったとはいえない。
男尊女卑の傾向の強い中国では、女性の指導者は一般に嫌われていた。因みにロシアのエカテリーナ二世やイギリスのサッチャー首相、またドイツのメルケル首相などは、自国において高く評価されている。欧米とアジアの社会環境の違いによるものか。