【前回の記事を読む】歴史は繰り返す…始皇帝の「焚書坑儒」で社会が一変したワケ
第二章 歴代中華王朝における華夷秩序の変遷
隋の時代
五八一年、第一代皇帝の文帝が禅譲(世襲によらずに相応しい者に政権を譲ること)によって長安に隋を建国する。
隋の時代になって倭国の推古八年、最初の遣隋使が送られ、推古十五年には、聖徳太子によって小野妹子以下で編制された二回目の遣隋使派遣が行われた。
この頃の隋は、西方に突厥(トルコ系やモンゴル系の遊牧民族)やチベット附国、東方に朝鮮半島の高句麗・新羅・百済、南方にチャンパー(チャム族の国)からの脅威を受けていた。
二代皇帝煬帝は、突厥を離間策(互いに争わせる策:代理戦争類似)によって分裂させ、西突厥には公主降嫁(徳川時代に仁孝天皇の皇女で孝明天皇の妹であった和宮を公武合体策として徳川十四代将軍家茂に嫁がせたような方策)で対処し、東突厥、高句麗は侵攻して朝貢関係を築いた。しかし、高句麗遠征は失敗に終わる(高句麗人の国防意識の高さによる)。
聖徳太子が推古十五年に隋に送ったとされる書に記された、「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す、恙無きや」の内容は、煬帝にとって極めて無礼であっただろう。しかし書を無礼だと認めながらも朝鮮半島の高句麗遠征をまぢかに控えていた折、高句麗の東方に位置する日本を戦略上無視できなかったのではないだろうか。
隋は、国内政策としては均田制(検地)、租庸調制(税制)、科挙制(官吏登用制度)を実施して、皇帝制度の強化を図っている。隋もまた儒教思想が衰えて国内が乱れ、さらに対外討伐にも追われて朝貢活動は不活発であった。日本からの朝貢は小野妹子が連続で二回、犬上御田鍬らが一回行っている。