序節 日本書紀の編年のズレ

第1節 6~7世紀の日本書紀編年の捏造表

補論1 顓頊暦概論とその手計算例

ともあれ、この竹簡暦書の発見によって、当時確かに甲寅年正月甲寅晨初朔旦立春を暦元とする顓頊暦と称された暦が存在して、0.5=半日分の暦元の修正を施して用いられていたことが証明されたのである。

(更に、史記・漢書に見える漢初の暦日干支、全58例についても、この修正暦日が5例を除いて適合しており、不合の5例については、原文の誤記2例、12月の11月への誤記1 例、太初暦による計算の攙入1例として解決されることが陳久金・陳美東両氏によって指摘され、顓頊暦の存在が確認されている。[古暦初探『文物』1974年第3期――前掲書、薮内清著『科学史からみた中国文明』p.209~210])

なお、薮内氏は同書に顓頊暦の暦元を紀元前1506年(旧)甲寅歳正月己巳朔旦立春と説明されているが(『唐書』「暦志」に「上元」とされる暦元である)、この暦元は明らかに机上で設定された架空の暦元である。四分暦では1年に1/4(四分の一)という端数があるので、19年経って月が一巡しても、正月の朔の時刻は元に戻らないが(19年=365×19+4+3/4日)、19×4年、つまり76年で年初正月の朔時刻が元に戻る。

この76年を1蔀(ホウ)という。四分暦では、この1蔀ごとに全く同じ大小月パターン・閏月パターンが繰り返されるので、暦を作る場合、76年分を作っておけば、あとは同じパターンを繰り返すだけですむ(大月とはひと月が30日の月、小月とはひと月が29日の月であり、大抵は大月と小月が交互に繰り返されるが、時々大月が2 回続く場合がある。このパターンと、閏月の入り方が、76年ごとに同じパターンで繰り返されるのである)。

1蔀=76年は(365×4+1)×19日=27759日=462×60+39日であるので、60進法の干支で数える時、1蔀後に正月朔日の干支は39日だけ先へ進む。21日だけ戻ると言ってもよい。従って正月の朔時刻が元に戻るのに加えて正月朔日の干支も元に戻るのは(21と60の最小公倍数が21×20であるから)、76×20年=20蔀=1520年後である。これを1紀という。1紀=20蔀=1520年。

他方、76年は60+16であるから、正月の朔時刻が戻るのに加えて年の干支が元に戻るのは(16と60の最小公倍数が16×15であるので)、76×15=15蔀=1140年後である。紀元前366年から15蔀=1140年を遡った旧甲寅年が、薮内氏が言う紀元前1506年である。

ただし、正月朔日の干支はずれる。50甲寅から21×15=5×60+15日だけずれる。年を遡っているので、15日だけ加えた干支、5 己巳になる。顓頊暦の暦元が紀元前1506年(旧)甲寅歳正月己巳朔旦立春と説明される所以である。

因みに、1520=25×60+20であるから、四分暦で正月朔日の朔時刻も干支も元に戻り年の干支も元に戻るのは、1520×3=3紀=60蔀=4560年後である( 1元という)。

言うまでもなく四分暦はこれほど隔たった年の暦としては使い物にならない。近年小沢賢二氏は、新城新蔵氏の誤解(後の暦日から逆算して求めた顓頊暦の暦元が本来のものと一致していなかったが故に顓頊暦は現実の暦法として存在していなかったと結論した誤解)を踏襲しつつ、顓頊暦の非実在論を論じておられるけれど(同氏『中国天文学史研究』〔汲古書院 2010年〕第五章「顓頊暦」の暦元)疑問である。