教育

昔は、教育者の子供や警察官の子供は、よく荒れたと思う。自分もそのひとりである。正しいことばかり言われて育つからだ。今は、どこの子生人も荒れるようだ。

本当のところ、正しそうな言葉は誰にだって言える。小さな生人だって言えるのだ。幼稚園の園児や小学生をあなどるなと、大人のふりをした生人や親や教師たちに言いたい。あなたという生人をよーく見ているに違いない。あの大人は間違っているのではないかということを見抜いているものだ。

現代人である幼児や小学生の生人は、相当物事をよく考えている。利口なのだ。登園拒否や登校拒否をやってのけている。すごく頭が良いのである。家庭の不和がすでに身に染みているのだろうか。昔は、ヘラヘラと小学校に行けば良かっただけだし、何を思うでもなく通ったものだ。疑問があるにせよ、気になる前に楽しかったのだ。その点でいうと今頃の子生人の思いは複雑である。

生まれた国、時代、社会、家屋、家庭、家族、血筋、環境、教育により生人は形成されてゆき、個々の人格が出来上がってゆくと言いたいが、現代の日本では個々の人格さえ育ってゆく環境ではないことが多すぎる。現代は、人を愛する心を持たない生人が多いように感じる。

まだ、人格が形成されていない身勝手な大人のフリをした生人たちが子供を育て、子は振り回され、家族の愛や調和などないままの家庭も多く、負の連鎖のように確たる自分を見いだせない新しい生人たちがまたそれぞれ大人のフリをした生人となってゆく。そんな若い生人たちは悩むか、考えもしないか、あきらめるのか、どこかへ行ってしまいたくなってはいないだろうか。

自己を確立するには、極めて難しい時代に直面している。子供なのに、十代なのに、すごい勢いで苦しい。すでに切なさや空虚を知っている。心の安定を持てない若い生人たちが、かわいそうでならない。これも時代のせいなのか。せめて、教育に関する格差だけはなくしていただきたい。人情を持つ生人は、せっかくこの世に人間としての生を受けたならば、誰かの役に立つ人間になりたいと考えたりもする。

人の役に立つことはそんなに簡単なことではなく、自分の人生を犠牲にしなければ成り立たないものでもある。その目標は簡単に打ち砕かれてしまう場合も多い。そして、少しずつ変わってゆく生人たちがたくさんいるのかもしれない。

今の世の中に当たり前などという言葉は通用しないし、普通とか一般的とか常識という言葉もそれぞれの生人によって全く違う概念である。生まれ育ち、個々に生きる環境が違うのだから、似たような思考を持つことなど到底できない。同じ環境でも、兄弟でも違う。父や母の優しさ、愛情が違うのだ。教育のあり方も各家庭や学校で違う。

せめて、小学生である子供のうちに、生人は皆違うものと教えてほしい。常識とは何だ。普通という言葉の普通が皆違うこと。一般的とはどのようなことを示すのか。同じ日本語であるが、生人によって意味が全く違うのである。「ちゃんとしなさい」と子供に言う生人はちゃんとしているのだろうか。「ちゃんと」とは一体何なのだ。生人それぞれが違いすぎるのだ。

全ての人間が違うものだということを本気で知らなくてはならない。とても難しいことだが、そこを知らなければ、いじめもなくならない。多くの生人たちがよく弱い者という言葉を使う。しかし、弱い者とは一体誰のことなのだ。生まれてきて弱い者などひとりもいない。と自分は思う。弱い者いじめなどというが、弱い者などこの世には存在しない。

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