現代社会の病
水浸し。砂漠のようなこの乾き。
生きてゆくとは、なぜこんなにも大変なことになったのだろう。
何も潤わない。
潤っている生人たちも確かにいるのだろう。生人差別がすごい国になったものだ。
なぜこのような国になったのか。
生人とは、まるで砂浜の砂や、大河、小川の小砂利や石、水の流れによっていかようにも砕かれてゆく岩やカケラや小石のようである。生きているというのは実に過酷だ。もうサバンナにいるのではないかと感じるほどだ。
生きているのはかなりつらい。明るい未来が見えない時代、子供や若者たちはすでに気づいてしまっている。
ここにいては壊されてしまうと。
人の命ほどわからないものはない。いつ生人が死人になるかなど、全く予想がつかない。明日はないかもしれない。世の中の生人それぞれが明日存在することを前提として生きている。だから予定などというものを組んだりする。
しかし、どんなに若くとも明日という日が来るとは限らないことを自分は知っている。
人生は生人にとってとても難しい。人生の奥行きの見当もつかない昨今、生人たちは何を目標にし、どんな未来を描きながら生きてゆくことができるのだろうか。
苦しい時代が始まって、そろそろ四年。何かが見え始めたのだろうか。
コロナという名の巨大な化け物の襲来により世界中の人々が恐怖を感じ、まだ生きていていいはずだったたくさんの生人たちがこの世を去っていった。それは今でも続いている。過去のような自由は奪われ、人々が鬱屈し、自暴自棄になってしまうような世の中が長く続いている。
コロナ初期には保健所とは連絡も取れず、救急車も呼べない。治療も受けられず、受けられても死んでゆく。そんな現実が起こっているにも関わらず生き残っている人、すなわち生人たちは自分には関係のないようにその恐怖した事実になれてゆくように見える。
どれだけの生人がつらく、いたたまれなく泣いたことだろう。身内が逝ってしまうのは悲しみを超えて、その後の生人の心もむしばむものだ。
大勢の生人が亡くなっていった。いつかそんな時代が来るのではないかと思っていたが。
自分がまぬがれた場合、何ということもなく生き続けている生人は、恐怖やいつ自分に降りかかることかも忘れて、また自由に動き始めた。自分には関係ないと澄ましている生人たちも多い。
また新たな悲劇が起こるのかはわからないが、若い生人、小さな生人たちにはどうか明るい未来が多く来てもらいたいと願う。