さて、顓頊暦が暦元を修正した上で実際に用いられていたことは、1972年に中国の山東省南部の臨沂(リンキ)で発掘された漢墓出土の竹簡暦書によって証明されている。この暦書は漢武帝の元光元年(紀元前134年)の暦と推定されるものであるが、顓頊暦の暦元の朔の干支指数を50ではなく50.5に変更して計算すると全てが暦書の干支と一致することが判明する。
冒頭に引いた薮内氏の書に、次ページ表のような暦書干支(暦書断簡から推定されたものである)と顓頊暦干支の対応表が掲げられている。
ただし暦書干支欄と顓頊暦欄の数字、及び修正干支欄は筆者(牧尾)による挿入である。顓頊暦欄の数字は暦元を変更しないで顓頊暦そのままによって計算した各月の朔時刻を示す干支指数であり(この計算の実際は末尾に記した)、修正干支欄はこれに0.5=470/940を加えた干支指数である。
他方、暦書干支の頭に記した数字は、各干支の干支番号である(こちらは朔時刻を示す干支指数ではない)。24節気を併せて計算すると、この紀元前134年は閏年となっていることが分かる。そこで顓頊暦の置閏法により、9月のあとに後9月が挿入される。
この表において各月朔の暦書干支を顓頊暦によって計算した干支と比較すると、アンダーラインを引いた6か所で異なっているが、その顓頊暦によって計算した干支指数に0.5=470/940を加えて修正した修正干支と比較すると、全て互いに一致することがわかる。
この操作は暦元の朔の干支指数を50から50.5に変更して計算することに等しい。これは暦元を寅初刻から申初刻へ変更したことに同じであり、夜半(子の正刻)を正午(午の正刻)に変更した操作と言っても同じである。
こうした暦元の変更は、実際の朔に適合させるための変更であったと思われる(24節気にも何らかの修正が施されていたか否かは不明である。24節気の修正は閏年の配置に影響を及ぼす可能性がある)。