ハルビンには、三十余りの民族が居住しており、一九三九年の時点での総人口は約四十七万人、そのうち、日本人は、わずか三万人程度だったのだ。ハルビンは、満州で、日本本土との関係が最も希薄な都市だった。特に、ロシア人、中国人、朝鮮人、ユダヤ人が多く住んでおり、そのほか、モンゴル人、アメリカ人、イギリス人、フランス人、ドイツ人も住んでいて、文字通り国際都市である。

そのせいで、ハルも、内地に比べれば世間の目を気にせずに、のびのびと暮らすことが出来た。そして、当然、ハルもナツもアキオもフユも、交友関係は、日常的に国際色豊かだった。

そもそも、ハルビンは、帝政時代にロシアが築いた街である。ロシアにとっては、首都ペテルブルグ以来の本格的な都市建設だったそうだ。モデルは、モスクワだと言われている。だから、ハルビン駅を含め、市内の建物は、全てアールヌーボー様式やゴシック様式など、洋風建築だった。

繁華街の看板の多くがロシア語で書かれ、ロシア人、ユダヤ人など、様々な人種の人々が街を行き交う。大連(だいれん)奉天(ほうてん)新京(しんきょう)など、満州帝国内の大都市は、おしなべて国際色豊かだったが、ここハルビンは、特に、その度合いが強かった。

街の目抜き通りであるキタイスカヤは、当時、極東一の国際的な繁華街だった。ここには、ロシア資本のデパート、ユダヤ資本のホテル、欧米資本の銀行の他、ロシア人や、その他の欧米人の経営するカフェやブティック、雑貨店、酒場、映画館、ダンスホールなどが、多数、立ち並んでおり、どの店もお洒落だった。

当然、店頭には、欧米の品物が並び、カフェに入ると入り口近くのガラスケースには、とりどりの種類のチョコレートが数多く並び、テーブルに座ると色んなケーキが運ばれてくるのだが、大皿に載った沢山の中から、好きなものを選ぶことが出来た。

また、ハルビンでは、土曜日ごとに様々な舞踏会が開かれ、老若男女が、胸を躍らせて参加した。