花の棘

秋は駆け足で通り過ぎていった。世間の景気の悪さは、小さな居酒屋「およし」にもちゃんと伝わってくる。バブルのころ札びらを切っていた客は、最後のつけを踏み倒したまま姿を見せない。顔役だと自慢していた客のところに集金に行ったら、半分だけよこして、取り立てに来るような店は馴染みにはできないと嫌味を言われた。会社の接待もめっきり減った。

でも、よし子はそれで十分だった。仕事帰りの男たちがちょっと立ち寄り、昼間の顔から自分を取り戻し、家族向けの顔になる。「およし」はちょうど句読点のような役目だ。

客たちはカウンターに座り、熱いお絞りで顔をぬぐう。するとたいていほっと肩で息をつく。よし子はそんなときの男たちが好きだ。突き出しと好物のつまみで銚子を二本か三本、頃合いを見て目が合うとよし子は熱い茶を出す。

「飲み屋のおかみに茶を出されちゃなあ」

たいていの客は、笑いながら茶漬けを食べて仕舞いにする。こんなうまい漬物を出すようじゃあ歳が知れるよと、憎まれ口をたたきながら腰を上げ、昼間の顔にけりをつけるようだった。そんな順調な日々だったけれど、孝介の足が遠くなっているのだけが淋しかった。

孝介の会社の若い人たちが飲みながら話していたことを小耳にはさんだ。孝介が引っ越したこと。社長に家族を呼べと言われたことなど。でも孝介は飲みに来ても何も言わなかった。そういえば二階に上がったのはずいぶん前だった……その日は夕方からやけに冷え込んでいた。

よし子はいつもより心持ち燗を熱くした。賞与の話も年越しの話題もさして景気は良くなかったが、年末に向けて張りがあるようで、店内は活気があった。

「おっ、雪になった」

帰りがけの客の声に、みんな戸口を見た。いつもより早く客足が途絶えたのを機に、よし子は看板の灯を消した。暖簾を仕舞いに表へ出ると、さっと粉雪が顔を撫でた。初雪ねと、独り言を言いながら暖簾を巻き、顔を上げた。遠くに人影があった。

「孝さん……」

遠いのに、孝さんだとはっきり分かる。

「もう仕舞いか」

「雪だから……」

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