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「文章を書く上に一番参考になったのはハーンではないか」知られざる志賀直哉と小泉八雲との関わり
第一章──出会いのふしぎ
先生と私
先生は単なる観光旅行というのは好きではなく、必ずなんらかの目的があって初めて、家を出られるのだった。この約束を果たすことができたのは、大学を卒業してから十七年がたち、私が幼稚園の園長になったときのことだった。
先生の専門はドイツ近代演劇だが、それだけにとどまらず、とても広範囲の研究分野があり、その一つに「メルヘン」があった。先生には『メルヘン案内グリム以前・以後』(NHKブックス)と、その増補版といえる『メルヘンの履歴書時空を超える物語の系譜』(慶応義塾大学出版会)というメルヘンに関する著書がある。なかでもグリム兄弟とアンデルセンのメルヘンについては造詣が深く、私の希望でもう一人、現代ドイツの児童文学作家ミヒャエル・エンデも加えていただいて、「文化講演会」と称しての講演をお願いした。
ミヒャエル・エンデは現代のメルヘン作家であり、彼の長編作品『モモ』や『はてしない物語』については、大人にもぜひとも知ってもらいたかったからだった。その折、先生からの希望で、松江にある「小泉八雲記念館」にお連れした。きっと抱影を偲んでのことだったのだろう。
じつは抱影は学生のころ、ハーンの文章と一緒に、アンデルセンの童話も翻訳(英訳から)していた。先生に確かめてはいないが、メルヘンについての興味は、抱影とのつきあいから始まったのではないか、と思っている。
最近知ったのだが、八雲は横浜に着いて早々に、鎌倉から湘南地域を訪れていた。そして先生の住まいがある藤沢の鵠沼海岸に三週間も滞在していたのである(『別冊太陽小泉八雲日本の霊性を求めて』)。そんなことも先生の頭のなかにはあったのかもしれない。さらにつけ加えると、志賀も初期の小説「菜の花と小娘」は、アンデルセンの影響を受けていると述べている(「続創作余談」)。
先生は、
「(小泉八雲記念館を)一人でゆっくり見てきます」
とおっしゃったので、私は別の場所で待つことにした。そしてこの日の宿は、鳥取県にある大山の中腹に取っていたため、豆子(このときはまだ知らなかったが)の故郷、安来を通って車を走らせることになった。