戦争が終わり、とにかく人々は前を向きはじめた。しかし日本に、父は自分の居場所を見つけることができなかった。心を蝕まれた父は、山に住んでいた頃ほどではないにしろ、私や母に当たることも多かった。子ども時代の記憶に、父との楽しい思い出はほとんどない。
それでもいくつか、懐かしい記憶がある。一つは小学五年生の頃に、父に野球のグローブを買ってもらったことだ。野球はこの時代の男の子なら誰もが夢中になる遊びだ。しかしみんな貧しかったから、本物のグローブを持っている子どもなど誰もいない。
あるとき父が、ポンッと私に子ども用のグローブを渡してくれた。どこかで買ってきてくれたらしい。みんなから羨ましがられて、とてもうれしかった。父も野球が好きだったから、一度だけ一緒に高校野球の予選を見に行ったこともある。私は大人になった後もずっと巨人ファンだが、こうした野球好きは父の影響も一つにはあったのかもしれない。
その父が、あるとき突然倒れた。
「中気である」
と言われた。中気とは今でいう脳卒中である。その頃は今のような有効な治療法もなく、倒れればそれ以上の手の施しようはない。我が家には病院にかかるお金も十分にはなかったから、命はとりとめたものの、半身に不随が残った。その後は働くことはさらに難しくなった。
その頃には、下にもう一人妹が生まれていて、我が家は五人家族になっていた。その生活を支えたのは母だった。八代は畳表の原料となるい草の産地としても知られる。い草で作った花ござの行商が母の仕事だった。毎朝早くからたくさんの花ござを持って、郊外の農家などを訪ね歩き、戻るのは夕方過ぎだった。それでも
「疲れた」
という言葉を、母の口から聞いたことはなかった。しかし一日歩き通して商売をしても、家族五人が食べるのが精一杯であった。