【前回の記事を読む】戦後台湾帰り、自分の居場所を見つけられず貧しかった父とのある一つの思い出

第一章 貧しき時代を生き延びて―終戦、そして戦後へ

台湾に生まれ八歳で日本へ

自力小遣いを中学生

土曜日など、学校が早く終わったときには、急いで川まで足を運んでアユ集めに夢中になった。ある程度の量になれば、桶を背負ってお店に届ける。

懇意になった料理屋の女将さんが、私のことをとてもかわいがってくれ、アユを持っていくとお昼ごはんを出してくれた。その料理が家では食べたことがないほど美味しくてたまらなかった。

お金を得たい思いもあったが、料理屋の女将さんから昼食をごちそうしてもらうことを期待して、よくお昼頃に時間を合わせて通った。中学時代のちょっとしたアルバイトになった。

小遣い稼ぎという意味ではこんなこともあった。

クラスメートに大きな農家の息子がいた。ある日、その同級生が私を手招きして、教室の隅に呼んだ。手に持っていた大きな袋をこっそりと見せてくれたのだが、中には米がたっぷり入っていた。

「これ、売れんかなぁ」

家からこっそり持ち出したらしい。なぜ私に声をかけたのかはわからないが、頼まれると断れないのが私の性分だ。頭を捻り、一つ思いついた。

「学校の前の雑貨屋に行ったら、買い取ってくれるかもしれん。やってみるか」

「おれ、そういうの苦手やけん、阿南、いっちょやってくれんかのう」

その雑貨屋では、佃煮や惣菜なども売っていて、中学校の生徒たちもよく弁当のおかずなどを買っていた。私もちょくちょく顔を出し、店のおばさんとは顔見知りだ。

「よし、やってみるけん」

当時はまだ米は貴重な食料だったから、商売をしている店では喉から手が出るほど欲しいはずだ。しかし中学生が米を売るなど、あまりにも不自然だ。そこをなんとか話をまとめられないかと、私は放課後になると店に行った。

「おばさん、米、買ってくれんかな」

「そりゃあ欲しかけど、あんたその米、どがんしたと?」

「友だちから分けてもろうた」

おばさんはいぶかしそうな顔をしていたが、しばらく考えてから言った。

「わかった。でも今回一回きりだけんね」

そして見事、商談が成立。同級生から手数料をもらったのである。もしかしたら商売の才覚は、その頃からあったのかもしれない。

金を稼ぐために必要なのは、体を使い、頭を使う、人との交渉術だ。その面白さを私は中学時代に体感していたように思う。