第一章 貧しき時代を生き延びて―終戦、そして戦後へ
台湾に生まれ八歳で日本へ
台湾生まれのお坊ちゃん
昭和十二(一九三七)年七月二十日、私は台湾の台中市で生まれた。
この年は日本にとって、その後の歴史を振り返れば、大きな転換期となった年であった。私が生まれる直前の七月七日に中国で盧溝橋事件が起こり、これが引き金となって日中戦争が勃発している。さらに第二次世界大戦へとつながり、まさに世界と日本が大きく変容し、戦争という荒波に飲み込まれようとしている時代に、私は日本の統治下にあった台湾で、日本人夫婦の長男として、その人生の一歩を踏み出したのだった。
両親は九州の出身である。父の故郷は大分県直入郡菅生村(現・竹田市)で、若い頃から自由奔放な気質だったらしく、阿蘇農業高校を卒業後に、夢を抱いて台湾へ渡ったと聞いている。台湾には父を頼って渡ってきた父の弟と妹もおり、おじは台湾総督府に勤務し、おばも台湾にあった日赤病院で看護婦として働いていた。
母は熊本県八代市で、かなり大きな農家の三人姉妹の長女として生まれたが、どんな事情があったかはわからないが、やはり家を飛び出して、台湾に渡り、父と知り合い結婚したのだという。私の生誕に関しては諸々の事情があるのだが、生まれたばかりの私がそれを知る由もない。
また、周りの家族たちも長くその事実をひた隠しにしていた。物心がついたときには、私には父と母がおり、台湾に住む日本人家族の長男として健やかに育っていった。当時はそれがすべてだった。この事情については、後で書きつづりたいと思う。
日中戦争から第二次世界大戦へと拡大していく時代の中で、当時の台湾で日本の人々はどんな暮らしをしていたのだろうか。残念ながら私の記憶には多くのものは残されていない。ただ、切迫した戦争の危機というものを感じたことはほとんどなく、穏やかな暮らしぶりだけが蘇ってくる。