【前回の記事を読む】戦争が拡大していく時代の中…台湾にいる日本人はどんな生活を送ったか?

第一章 貧しき時代を生き延びて―終戦、そして戦後へ

台湾に生まれ八歳で日本へ

台風の中を船で日本へ

戦争に関わる記憶といえば、家の庭に大きな防空壕があったことだろうか。何かあれば、ここに駆け込んで避難することを教えられたが、一度も利用することはなかった。

父は一度は兵隊に取られたものの、数か月ほどですぐに戻ってきた。どんな身分の人かはわからないが、政府や軍との付き合いもあったようで、よく自宅でビリヤードや花札などを一緒にしていた。いわゆる接待であったのだろう。また製糖の仕事をしていたので、そちらに専念するようにと免除されたのかもしれない。

だが父の弟は戦場に出て、それから半年ほどで亡くなったと聞いた。戦争の終わりをどのように知ったのか、八歳だった私に、その当時の記憶はあまりない。とにかく突然だったことだけは覚えている。

ある日、日本が戦争に負けた、日本に引き揚げると言われて、慌ただしく準備をして、大好きだった家を離れた。大きな屋敷、豊かな暮らしはすでに私たちの手にはない。父が買い集めた掛け軸、屛風、家具などはすべて一緒に仕事をしていた台湾の人々に譲ってしまった。父の悔しさはどれほどであっただろう。

私たちに許されたのは、一人現金千円と、わずかな着替えをまとめた手荷物一つだけだった。こうして昭和二十(一九四五)年十月、私たち家族は台湾のキールン港からアメリカの大きな貨物船に乗って、日本へと向かったのだった。

私が六歳のときに妹が生まれていた。両親と私たちきょうだいの四人家族は、肩を寄せ合い、言われるがままに貨物船に乗り込んだ。大きな船底にはたくさんの人々がいて、誰もが不安そうな表情をしていた。私も無事に日本に行けるのかと心配になり、父に尋ねた。

「どれくらいで日本に着くの?」

「二日か三日だ。すぐに着くさ」

誰もが、心は一路日本へと()いていただろう。だが運悪く、船は途中で台風に巻き込まれてしまった。大海原ではアメリカの貨物船もまるで木の葉だ。船は大きく揺らぎ、初めて船に乗った私と妹は、沈むのではないかという恐怖と船酔いに苦しめられながら、日本に着くことだけを祈った。