もうすぐ日本に着くという頃に、誰かが「日本に着けば赤飯が食べられる」と言い出した。船の中の人々から喜びの声が上がる。ほとんど食べ物を口にしていなかった私たちには、その言葉が大きな希望となった。
ようやく和歌山県近くにたどり着き、「ポンポン船」に乗り換えて田辺港に降りるまでに、一週間ほどかかったと思う。港に着くと、大陸からの引揚者を迎えるための多くの人々が集まっていた。引揚者を迎える役員のような人たちから、私たちは講堂のような場所に案内された。
さあ赤飯だと胸躍らせていた私たちに、そこで出された待ちに待った食事は、ボソボソとしたコーリャン飯とタクワンが数切れ。すごくがっかりして、あまりにも悲しくて、空腹だったのにほとんど食べられなかったことをよく覚えている。
それから私たち家族は母の実家を頼って、汽車を乗り継ぎ熊本県八代に行った。母の身内からは優しく迎えてもらうことができ、やっと日本に帰ってきたことを実感できたのだった。中でも母の三姉妹の一番下の妹が、私の姿を見てわんわんと泣くのを、なんて大げさなおばさんなのかと、子ども心にも不思議に思ったものだった。この理由は後に判明することになる。
大陸からの引揚者は、最初の頃は温かく受け入れられた。だが戦争に敗れたばかりの日本ではすべてのものが不足していて、誰もが自分の暮らしだけで精一杯だった。誰もが他人を思いやる余裕などはなかった。
最初はお客さんのようにもてなされたものの、数か月もすれば、自分たちで生きていけ、というのが当然のこととなっていく。何もかもを捨てて日本に戻った私たちも、またゼロから生きていかなければならなかったのだ。
母の実家に間借りをし、家族四人が肩を寄せ合う、つつましい暮らしとなった。豊かだった台湾の暮らしから一変した。しかし、このくらいはまだ序の口だった。この後、天国から地獄とはまさにこのことかと思うほどの生活が待ち受けていたのである。