二十二

過敏症の世の中には何もしないことがいいのか。黙って何もかも揺らぎ交わした祝福も、神が盗み読みする希薄な表現なのか。地にはなたれる山谷わびしくたどり、たしなめた名ばかりの血眼を覚まさない。ほとんど浅い眠りを繰り返し、浅いから苦痛かといえばそうでもない。むしろあえてその浅い眠りを楽しんでいるくらいなのだ。

その半分目覚めたような状態で頭のなかで起こる非現実的な画像というか短い物語の鑑賞をただぼんやりと見ているのが好きだ。現実にはありえない物語が映像化され映画でも見るように次々とかつて見たことのない新しい物語が数分おきにその略図を見せる。

どれも皆脳のシナプスの組み合わせがさまざまな非現実を生んでいると思うとさらに興味深い。

脳はこんなことを神経の結びつきに潜在させているのかと考えると、ふだん演じている奥底には別の潜在した現実を闊歩する何者か、あるいは何者でもないひとつの現実を生きる神経があるのではないか、そうしていく通りもの組み合わせを脳のなかで試作・模索させながら、ただ単に現実を今の錆びついたパターンとして、健気に生きているだけで、それを選択したのかあるいは脳神経が選択したのかどちらもがさまざまな血を演じているような。

それとも覚めない芝居に悲観的なのだろうか、そこに悩ましくたどりつく意識があって、見ている非現実は神が別の次元へと泳がせてくれる現実と非現実と……いったいそんな区別は誰がするのか……。 

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