一
淀んだ溜め池に名前のわからない羽虫が、ときおりちょんと水面をつついては、どこかへ消えていく。
そのたびに止まっていた時間がようやく動きだすかのように、水面に波紋をつくる。それほどあたりは静寂そのものだ。
昨夜から降り続いた糸をひく油でも落ちているのかと思うような、ねっとりした雨が、午前中いっぱい雨足を強くしたり弱くしたりを繰り返しながら、昼になりようやくやんだ。
雨はあがったが、空は重たく暗い雨を含んだ膜に覆われたままである。
まるで、毎年毎年、異常な降雨被害をもたらす近年の想定外な自然の猛威を表すようで、思えばもはや地球も惑星としての寿命がつきかけているのではないか、あるいは人類が早晩滅亡するよと、警告をしているのかと、晴れ間の見えぬ重く垂れ下がる空を見上げ、修作は、ひとつふたつ嘆息をもらし、誰に言うでもなく、「完璧で未完成な終末」との不穏な一言半句が浮かんで、ひとりごちた。
「完璧で未完成な終末」
それが何を意味するのかは、修作にはもちろんわからないけれど、ときどきひょんなことから、一つの言質、一筋のセンテンスがぽろりと生まれ落ちたように、転がりでることがある。
ふと生の一滴として、こぼれ出たのでもあろうか………それとも、追憶から現在の池に引き戻されて、水底にホロコーストの犠牲者たちの人骨が沈んでいるイメージを思い描いていたからか………、いずれにしても、こんな日は面妖な気分に変わりはない。
時のレイヤーに埋もれたシーンが、夢とも遠い記憶とも見分けがつかない。
これまで歩いてきた記憶と現在とが交錯し、その中に今の晩年の営みが入り込み、出現して、記憶の書き直しをしたいかのような振る舞いをしている。
書き直しをされたら、当然現在も変化していなければならないはずだが、過去の時間の書き直しなどできはしまい。
しかし記憶の解釈、捉え方を変化させたら、おのずと現在の見方・考え方が違ってくるというのはあるのではないか。
人間の一生はあっけないものだと、晩年になれば、ようよう気づいてはきたものの、青年期のあのパッションの横溢のまま、精神だけはまるでこの淀んだ池のように、時が止まったまま、今を生き延びている感覚なのだ…………………………。
結句、作品も人生も未完成のまま、無限であり有限である宇宙のなかに、一筋の未完成な個×作品が、任意の場(小屋)を得て戯れたものは、個人でありながらも、実は多くの歴史のレイヤーに重なりあった、たくさんの子らの魂の表出として、継続した未完の終末が見てとれるのではないか、と小屋内を今一度眺め、この廃屋寸前の破れ家空間は、任意の点でありかつはすべての宇宙全体であるかのようにも、修作には思えてくるのだった。
ここが、「自土即浄土」。
小屋の窓から、淀んだ沼とも稲作用溜め池とも思える小さな水溜めは、相変わらず静かに水面をとろりと横たえて、何もなかったかのように、周囲の気配をすべて呑み込んでいる。