【前回の記事を読む】常にフル生産が要請されていた広畑製鉄所の「ワンワン運動」とは

第3章 富士製鉄、新日本製鉄の頃

13 富士製鉄広畑製鉄所製銑部

昭和四十六年十一月一日(1971、11、1)に製銑原料工場長(昭和五十年五月三十一日、1975、5、31まで)に任命された。鉱石管理、焼結鉱製造ラインに加え新たにペレット工場が建設され、生産を担当した。公害成分を除去した微粉鉱石をパチンコ玉状(ペレット)にして高炉に使用する新しい製造技術である。

海外から粉鉱石を輸入するに際し、スラリーという水に溶かした状況で積み込み、途中で水分を抜く。広畑に着岸したら、水を船内に注ぎ、スラリー状で荷揚げをし、スラリーポンドという人口池に蓄える方法を採用した。

鉄鉱石中の有害元素の除去、スラリー船の設計、建造と鉱石の海上輸送、日本での荷揚げ貯蔵法、微粉鉱石の球状化技術、化学成分と加熱管理による硬いペレット製造技術、高炉での適正使用技術開発など、製造現場での技術者としての醍醐味を十分味わせてもらった。上司や同僚の支援により特許や発明考案など表彰や海外発表などの機会を得た。

この技術は世界の未利用資源の利用や、公害成分除去技術応用など幅広い経済的、環境保護的価値を有するので、国際的関心を集めた。

昭和五十年六月一日(1975、6、1)に製銑技術課長と任命された(昭和五十一年三月三十一日、1976、3、31まで)。ここでは技術掛長を一度経験していたので、古巣に戻ったような感じがした。但し職制改正によってコークス工場が製銑部に編入されていたので、担当する範囲は広くなった。

更に環境問題や省エネ、コスト削減などの生産管理的要素が強くなって、海外、他社、他製鉄所との競争も一段と厳しくなっており、製銑部全体のパワーアップのための計画作成と製銑部門生産品質コスト環境管理が重要な職務となっていた。よろず屋である。

工場長として無災害職場表彰をする。昭和四十九年二月六日(1974、2、6)
工場機関紙清流第89号 昭和四十九年一月一日(1974、1、1)
広畑製銑部職位表 昭和五十年六月一日(1975、6、1)