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第3章 富士製鉄、新日本製鉄の頃
13 富士製鉄広畑製鉄所製銑部
これまでの研究成果を応用するために、昭和四十二年九月(1967,9)に広畑製鉄所製銑部の製銑技術掛長に任命された。時の上司である製銑部長が小田部精一氏であった。
同氏は優れた人格と指導力を備えた方で、社内には多くの信奉者が居た。今も同氏を中心に広銑会が東京にあり、定期的に親睦会を開いている。同氏を中心にした会合は社内に幾つか存在する。氏を慕い尊敬する部下が多いからである。筆者の研究所時代の研究成果を、溶鉱炉操業に応用することを大胆に推し進めて頂いた恩人である。
広畑製銑部は製鉄所の最初の製造工程、鉄鉱石から鉄になるまでを担当する。製銑技術掛は、その製造に関する生産計画、原料エネルギー計画、コスト収益管理、生産統計などのほか、製銑技術全般に関する管理業務を行う。従って事務職社員も居る。福山繁一、片山力、木原氏ら経験豊かな技術者も居た。まさに部の窓口であると同時に各製造工程の調整業務を行う。やりがいのある職場であり、ここでの経験はのちの職場、組織でも生きている。
富士製鉄(現日本製鉄)広畑製鉄所の高炉掛長をやっていた頃、即ち昭和四十四年七月から昭和四十六年十月まで(1969,7-1971,10)は日本が大きな経済発展をしつつある頃であり、常にフル生産が要請されていた。職場は色々な困難があったものの、いつも活気を呈していた。何とか社会の要請に答えんものと、全員で頑張っていた。
広畑製鉄所の高炉も、第一高炉、第二高炉、第三高炉と逐次基数を増し、昭和四十五年六月(1970,6)には第四高炉の建設が完了し、富士製鉄・八幡製鉄合併後(当時の新日本製鉄)の最初の高炉火入れを行った。
広畑製鉄所は四基高炉体制でフル生産が行われていた。その中でも当時の第三高炉は何となくお守がしにくい高炉であり、いつも操業者を泣かせていた。特に炉命末期になり、改修が近くなる頃には、設備故障が頻繁に出始める。特にシャフト、炉腹の亀裂、炉底のレンガが薄くなってしまい、内の高熱物体が出てこないかという心配は、いつも番人である筆者の神経をすり減らすものであった。
あたかも親が子供の体を診るように、いつも炉体点検をし、もし異常があれば早めに対策を講じることが出来るようにしていた。そのためには責任者が陣頭指揮をして諸計器を観察しながら、現場のベテランの勘、コツ、経験をフルに活かして、高炉内部の状況把握と設備故障を予見することが欠かせなかった。