【前回の記事を読む】常にフル生産が要請されていた広畑製鉄所の「ワンワン運動」とは13 富士製鉄広畑製鉄所製銑部昭和四十六年十一月一日(1971、11、1)に製銑原料工場長(昭和五十年五月三十一日、1975、5、31まで)に任命された。鉱石管理、焼結鉱製造ラインに加え新たにペレット工場が建設され、生産を担当した。公害成分を除去した微粉鉱石をパチンコ玉状(ペレット)にして高炉に使用する新しい製造技術…
[連載]共生感謝録
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エッセイ『共生感謝録』【最終回】藤田 慶喜
消えてしまった1人の工員…「現場のチームワーク」を体感した出来事
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エッセイ『共生感謝録』【第12回】藤田 慶喜
常にフル生産が要請されていた広畑製鉄所の「ワンワン運動」とは
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エッセイ『共生感謝録』【第11回】藤田 慶喜
富士製鉄の留学制度で東北大学へ…緑豊かな仙台での思い出を振り返る
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エッセイ『共生感謝録』【第10回】藤田 慶喜
生まれ育った東京を離れて姫路へ…富士製鉄入社当時の思い出
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エッセイ『共生感謝録』【第9回】藤田 慶喜
巡検旅行に手書きの論文…東京大学で過ごした思い出を振り返る
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エッセイ『共生感謝録』【第8回】藤田 慶喜
麻布中、麻布高、東京大学…厳しい受験を乗り越えた“先”にあったこと
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エッセイ『共生感謝録』【第7回】藤田 慶喜
国内外のトイレを掃除する活動?参加して気付いた「意外な事実」
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エッセイ『共生感謝録』【第6回】藤田 慶喜
名門・麻布学園に通った男が体験した「毎月25日の苦痛」
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エッセイ『共生感謝録』【第5回】藤田 慶喜
「サラリーマンでは味わえない喜び」を得た父の音楽人生とは
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エッセイ『共生感謝録』【第4回】藤田 慶喜
淡い期待と切ない記憶…「枕元に何も無い」敗戦後のクリスマス
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エッセイ『共生感謝録』【第3回】藤田 慶喜
見てはいけない物を見た「米軍に爆撃された」我が家の跡に呆然
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エッセイ『共生感謝録』【第2回】藤田 慶喜
「富士山が見たかった」お寺で仏様の頭上に登った少年の言い分
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エッセイ『共生感謝録』【新連載】藤田 慶喜
兵隊ごっこをしていると…「やめなさい。戦争は終わったから」