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第3章 富士製鉄、新日本製鉄の頃

富士製鉄広畑製鉄所赴任と新入社員時代昭和三十四年四月一日(1959年4月1日)に富士製鉄株式会社(現日本製鉄)に入社した。当時の社長は永野重雄さんという方で上野の精養軒での歓迎会の後、本社での教育研修を終え、赴任地広畑製鉄所へ出発した。

当時まだ新幹線は無く、旧東海道線の夜行に乗った。駅には両親、兄弟はじめ伯母、大学時代、教会の友人らが見送りにきてくれた。生まれ育った東京を離れて、地方都市に行くことは顔には出すまいと思ったが、若い身には寂しいような、悲しいような、何とも表現出来ないうらぶれた気持ちになっていたと思う。

夜行列車が東京駅を離れ、自分の座席に腰を落ち着けた時に、窓を過ぎ去る東京の夜景と窓に映る自分の顔を眺めていた。会社からは二等車の費用をもらっていた。それを浮かして三等車に乗る新入社員が居て、停車駅でそれを人事担当者がチェックするという噂があった。

二等車には筆者のように新しい背広を着た者が沢山乗っていた。みんな富士製鉄に入社し、広畑製鉄所に行く連中であったことは、翌朝到着の姫路駅で分かった。駅には一年先輩の是松氏(東大柔道部出身、播磨煉瓦元社長)がバスで迎えに来てくれた。それぞれ僅かの荷物を持ってゾロゾロとバスに乗り、夢前川を下って広畑町に着いた。

寮は生年月日の古い順から鉄筋の吾妻寮へ入り、若い方は木造の岳水寮に分けられた。運よく僕は五月生まれのため、鉄筋の方の寮に入った。

藤田家ではこれまで兄弟雑居の生活であったので、生まれて初めて個室をもらい、机、洋服ダンス、ベッドを所有する身分になれた。嬉しかった。荷物を入れても隙間だらけ。沢山の空間がある全面白壁の部屋であった。全財産がそこにあった。

広畑に行って最初の買い物は自転車だった。どこに行くのにも田圃の中に通じている道を自転車に乗って行くことが必要であったからである。寮には沢山の自転車が収容出来るように屋根付の自転車置き場が設置されており、山陽電車の駅には専門の自転車預かり屋が店開きをしていた。

当時流行し始めた月賦販売制度があり、厚生課に行って認めてもらうと毎月の給料の中から一定金額が差し引かれるようになっていた。先輩からは新入社員が入ると「新しい自転車ばかりを狙う泥棒が居る」という話を聞いていたので、中古自転車を新品の半分の値段で手に入れた。お陰で盗まれずに済んだ。

自転車は会社への出退勤のほか、製鉄所構内でもいつも利用した。だから製鉄所の鉄粉と田舎道泥ですぐ汚れた。今では自動車が当たり前だが、当時は自転車がその役を果たした。

ある日同期入社のH君が、製鋼工場の溶鋼のサンプルを運搬中、構内で転倒し顔に傷の残る怪我をした。早速災害対策委員会が開かれたが議論が紛糾した。

よく調べてみると彼は大学を出て、この広畑へ赴任するまで、自転車に乗ったことがなかったらしい。道理で彼の自転車はわき目も振らずスピードを上げ、直進しており、朝夕の会釈も彼には通じなかった。今も彼の顔に残る傷を見るとその頃を思い出す。